第十三章

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 二人はそれから、自分たちの冒した危険からまだ醒めない興奮から、実に子供のような好奇心で、日没前に海浜公園の砂浜まで出かけようという話をした。  公園の陸側の樹木の叢陰から囁くように聞こえてくる潮騒を辿って、二人は浜辺へ向かった。木々の向こうはもう海に切り出ている浜辺のはずなのに、あの海の潮の匂いがなく、菜穂美は不思議に感じた。  海浜公園はビーチから公園の緑地まで、全てが完全な人口造形である。特にビーチに立った風景は、その海が真黒な東京湾である以外は、風に揺れる髪の少ない椰子(やし)の木から、カラフルなビーチパラソルから白い大粒の砂まで、遠い南洋の光景をそのまま切り離してきたようである。  二人はわざわざオーストラリアから取り寄せたという、真白な砂浜に出た。夜が迫っていて、人数は極めて少ない。急に砂浜に現れた二人に驚いて、波打ち際に二十羽ほど群れていたミユビシギたちは、雪のような羽毛と胡麻のような瞳を煌めかせ、二人の前から逃げ去るように隊列を成して飛び去った。  砂浜で碧は足元に転がっていた貝殻を見つけて、拾い上げて菜穂美に見せた。菜穂美は驚いた顔で「私新婚旅行のシドニーのビーチで、同じものを見たわ」と言った。砂浜は遠い太平洋の向こうから、碧が見たことのない南洋の情景と、菜穂美の美しい薄桃色の貝殻の記憶の断片をここまで運んできていた。  勃然と日没前の波打ち際に立ちずさんで、菜穂美は水平線の彼方の空を眺めた。東の空は鬱々と紺を深め、西の空には紫を射した雲底へ夕陽が傾き、その黄金の神々しい光が、海面を割るように這って、こちらに迫って来る。迫ってきた先で輝いているのは、碧の横顔だった。  その光に気を取られたかと思えば、また南の港湾地帯からは、貨物船や大型タンカーがおんおんと進行音を鳴らしながら港から一隻また一隻と進水してゆき、その鋼鉄の船体が向かう日没の沖の行方は果てがない。  静かな波のさざめきが近くまで寄せて返すとき、菜穂美の心にも何とない期待と不安とが、代わる代わる立ち代わりにやってきた。さざめきは寧ろ、自分の心が揺れる音のようにも感じられた。  波はまるで地を這う蛇のように、蛇腹な起伏と細かい鱗を持って緩慢にしなりながら、広大な海原を越えてこちらへやってくる。その砂浜から近いところは透明で、鮮明に真砂の底が見えるが、たった5メートルも先の水底に目を遣ると、そこは朽ちた暗渠(あんきょ)のように形も色もくすんでいてよく分からない。  だが菜穂美は考えなしに靴とソックスを脱ぎ捨てて放り出した。菜穂美にとって、もうこのような危険くらい冒すことは歓びに近いものだった。指と爪の間に砂粒を噛みながら、ゆっくり水に浸かる。冷たい。水中に砂煙を立てながら裸足が真砂に埋まってゆく感覚が不思議で、彼女が一歩進むたびに水流が行く手を阻んだ。  菜穂美の無邪気はだんだん楽しくなって、碧にもこちらへ来るよう手招きした。碧は海に入ろうとして、波打ち際で靴下を脱ぐのに手間取っている。  菜穂美は、もしかしたら、自分がこのまま、海のずっと深くて光の届かないところまで潜って行けるような、理由のない感覚がしてくる。この理由のない感情はまるで海のようだ。時々荒々しく心を揺さぶり、時々優しく心を潤す海。
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