第十四章

2/5

22人が本棚に入れています
本棚に追加
/79ページ
 日葵は九月の中頃を過ぎたここのところ、何故か元気がなく、碧の目には間違いないくらい、調子が優れない。これだけで既に、普段の彼女の鈍感さからすれば、かなり異常なことのように思われた。  日葵は日中特に気分が曇っている。あれだけ日に浴びて嬉々としていた夏の太陽がもう懐かしく感じる。時々貧血のような症状が出て、全身の血が身体のどこかへ吸い取られるように感じられて、脱力感や軽いめまいや立ち眩みがする。それなのに頬は何かを感じたように鮮やかに燃えて、じっとしていられずそわそわして仕方ない。これでは仕事にも集中できず、なぜか気が遠い気がして、昼休みになるとオフィスの窓辺でぼっとしてしまう。  複雑さも無ければ表裏も無い喜怒哀楽は、日葵のもっとも美しく、穢されようのなく、犯しようのない、聖女のような性質だったが、このような理由のない調子の負の傾き方は、日葵を別人のように思わせ、碧は彼女と逢う毎週の金曜の夜でも、どこか鬱っぽく元気のない彼女を抱きしめて一緒に眠るのが自分の役目のように感じられた。  この抱擁が、これまで彼女以外の多くの別の女を包んできたことを、日葵は知らないはずであるが、もしかして日葵が自分の悪行の数々を知ったために調子を崩し、にもかかわらず罪を見過ごしたうえで自分の胸に頭を預け、自分の心からの贖罪を求めているのだとしたら、碧にはもうどう謝ることもどう認めることも、全て不可能に思われた。  日葵は結局その土日も気分が晴れず、月曜に会社を休んでいよいよ市内の病院へ出向いた。目に見えぬ何者かに恐れをなしながら、駅から駅を移動し、ロータリーで病院行のバスに乗り継いだ。バスの乗客は日葵以外老人ばかりである。老人たちはロータリーで乗り込んできた日葵を、睨みつけるような皴だらけの汚く黄ばんだ目で垣間見た。日葵には確かにそう感じられた。彼女は若い自分がここにいることが、とても場違いに感じる。  大病院の受付まで来て、日葵は今更悩んだ。これまで大きな病気というべき病気のなかった日葵である。受付まで来て初めて、自分がどういう病気でここに来たのか分からない。何科を受診したいかも、今自分の症状がどんなものかも、ただいつもと体の具合が少し違うという雑駁(ざっぱく)な説明以外に出来なくて、高々と頭上の抜けた勝手の知らないホールの天井を見上げるしかなく、日葵はぼっとした。  日葵はやはりどうしようもなく、受付機械の近くに立っている中年の女の看護師に近寄って、時々軽い目眩がするが、何科を受診すれば良いか分からないと尋ねた。看護師は日葵を心配させぬよう優しく笑って、自信たっぷりに答えた。 「ならまず内科を受診してみてください。当院には腕の確かな名医がおられます。分かる範囲で良いですから、問診票に簡単に症状を書いて、またこちらにお持ちください」  問診票を看護師に預けてから、日葵は一時間半待合室で待たされた。体調が優れずその不安までが日葵を一度に責めて、この一時間半はゆっくり身体を切断されてゆく凌遅刑(りょうちけい)のようにも思われる。  碧もいつも、病院でこんなに無駄な時間を取らされ、苦しめられているのだと身をもって経験すると、彼女はその素敵な鈍感さを無知や無神経だと思い始めて碧に謝りたくなった。  こう日葵が忸怩(じくじ)としていると、鈴のような優しいブザーが鳴り、診療室の入口の上のモニターに日葵の受付番号が大きく表示された。日葵は椅子から立ち上がって、これから自分がどうなるのか分からない不明さが恐ろしい。  日葵は恐る恐る診療室の扉を開いた。既に内科医は机の前の椅子に座って日葵を迎えていて、その美しい鼻梁に支えられた細い黒縁の賢明な伊達眼鏡は、真面目で優しい顔で、日葵が診察室の椅子に座るときの仕草をじっと観察していた。 「こんにちは。田中日葵さん、ですね? 今日はなんだか調子が優れないと」 「はい。……先生私、実は今まで幼稚園の頃に一回引いたきり、風邪もまともに引いたことがなくて、その、病気という病気になったことがなくて、今の自分がどういう状態なのかも、よく分からないんです」 「まあ、それは。今までずっと健康でいらしたのね」 「はい。だから不安なんです」  俯いた日葵を見つめて、内科医は辛そうな彼女をこれ以上不安にさせないよう、膝の上で固くなった日葵の手を握って、毅然と彼女を励ました。 「心配なさらないで。これでも私、それなりに目は良い方です。今さっき田中さんがお座りになる様子を見て、こういう言い方はおかしいですが、田中さんのお身体の状態が大体分かりました。けれど念のために、これからまた別の科へお行きになってくださいね」  日葵は訳も分からず、この内科医の言葉を疑いたくなった。それくらい切実な目を向けて、日葵は尋ねた。 「私はどういう病気なんですか」  この道二十年以上最前線に身を投じ続けている臨床医は、寧ろ自分の方こそ何度もそう言われたいと願い続けていた。人間は皆、自分が言われたいと願う言葉を知らず知らず他人に口にする。女医は歪みない自信を持った真直ぐな目でもって、日葵にこう伝えた。 「病気なんかじゃございません。おめでたです」  檜垣菜穂美は、誤診の前例のない名医である。
/79ページ

最初のコメントを投稿しよう!

22人が本棚に入れています
本棚に追加