第十四章

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 日葵は妊娠したのである。しかし日葵の突然の妊娠は、決して菜穂美が『おめでた』と形容すべきほどには、朗報とは言えなかった。  産婦人科へ回され、精密検査を受け、それが本当の事であると判明したとき、まだなにもかも現実離れしているうち日葵は途轍もない歓びに迎えられ、それから現実の感覚に戻ると崖を滑落するかのように途轍もない不安に襲われた。  日葵はあまりに碧に気を許しすぎたのかもしれない。何かの幸運か悲運かしれない本当の偶然が、二人の間に不安の落胤(らくいん)(もたら)した。  こうなることはいずれ間違いないことであるべきだったが、しかしそれは著しく時期を逸し、少なくとも自分たちの赤子を不安の赤子と捉え、まるで他人の赤子のように思ってしまうことになるならば、日葵はそんな薄情な自分を悔やみ、まだ膨らんでもいない腹を撫でて、泣かねばならない気がする。  それは限りなく自己憐憫に近い哀れでエゴイズムな嘆きである。つまり日葵はまだ、新しい自分ではない何者かを産むほど、自分と碧以外のことを考えることのできない状態、母親になるには十分な愛も猶予も足りない気がする。  日葵は数日、職場の同僚・先輩や、信頼できる友人や、母親の誰にも自分の妊娠を相談せずに一人で考えて、まず誰よりも先に碧に打ち明けるべきか迷った。これは一見自然な考えにも思えたが、そもそもこの不安の原因である碧に一番先にそれを伝えるのは、相談というより寧ろ詰問になりかねないと思ってよした。  まだお腹が目立たないうちは、産婦人科の先生に相談していれば良い。まるで何事もないような顔をして、周囲を欺きながら平然と生きてゆけば良い。だがお腹が目立つようになって、子宮の中からまだ顔も分からない何者かが腹を蹴るようになったら、どうして他人を誤魔化しきれるだろう。ならばそうなる前に手を打ってしまうべきではないか? つまり日葵の子宮に芽生えたばかりの小さな青い芽を、成長する前に摘み取ってしまうべきではないか?  だが日葵はそれだけは死んでも嫌だった。日葵は自分が責任も保証も持てないくせに、しかも母親になる勇気も覚悟もないエゴイストのくせに、自分の意志ともつかぬ意志に任せて誰かの命を中絶するような独裁者のような真似が出来なかったのである。  こういう危機に接したとき、人間は不条理に第三者の思いやりを期待してしまう。まるで自分があらゆる合理的配慮を受けて、社会の誰からも助けられて生きていく当然の権利があるように思われる。だが日葵のこの自然な願望は、決して叶うことはない。体調の悪い日葵は、体調の悪くない社会からすればただ体調が良くないだけに過ぎない。ほんの少し勘を働かせ、感情の溢流(いつりゅう)を顧みなければ、誰にでも簡単に出来ることだが、人目を忍ぶあまり誰も自らすすんでしようとしないことを、我々は思いやりという言葉で表現する。  日葵は自分がこういう立場になってようやく、碧の立たされている状態の本質を理解した気がする。彼は何故こんなに辛いのに、私に何の苦情も苦言も言ってこないのだろう。何故あんなに美しい微笑を自分に向け続けてくれるのだろう。こんな窮屈な無力さは、殆ど死のようなものだ。  生は人間に生きる以外の何かを必ず要求し、それと同じくらい何かを施すが、死は人間にただ死ぬこと以外に何も要求しないかわりに、何も施さない。人は他者のいずれかの死を直視すると、嘆き悲しむ感情の猶予を与えられ、まるで死に施しを受けたと思ってしまうが、それは実は他者の死にではなく、自分の生の無念さにこそ施しを受けた結果であるといずれ気付く。  我々は、或いは殆ど全ての生物は、その瞬間になってようやく、自分自身の死を直視できない救いのなさに気付くのである。碧はどうしてこんな無慈悲な身の引き裂かれるような不平を許し、受け入れ、耐えることが出来るのだろう。だが少なくとも、まだ生に救いを求めるならば、我々は自分が直視できぬものを深く思い詰め過ぎてはならない。  日葵は碧の顔を思い出し、そしてあの冷たい手が自分たちの生活に与える揺るぎない意味を思い出すと、日葵は自分が懐胎する前と後では、碧に対する忠義のような感情が、欺瞞と誠実に明らかに区別された気がした。  すると日葵はやっぱり、誰にもこの懐胎を打ち明けず、この、まるで自分の鈍感さの怠惰が招いたような必然の不安と苦しみから、自分はまだ解放されてはならない気がする。
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