第十四章

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 朱里の発狂も、日葵の妊娠も、それらの何一つをも知らない碧にとって、この夏の終わりの到来は、一つの悲しみも、一つの恥も、一つの躊躇いも謎に現れない、これからあらゆる生命が死へ向かっていく季節の始まりにしては疑いたくなるぐらい、いささか無味乾燥とし過ぎているような気がした。  この夏の終わりの数日を、碧は房総半島東方の、九十九里浜南端の、菜穂美の実家の吉田家が所有するビーチサイド・コテージで迎えた。この二週間前、碧は遂にC市内のとある企業の障害枠の事務職に内定が決まったのである。  勿論碧は誰よりも先に日葵とこの朗報を祝ったが、菜穂美もまたそれを祝うため自分の別荘に彼を招待した。こうして二人は全く不自由のない水入らずの逸楽な数日を得たのである。  こうしていると、結局紀子の火遊びよりも、自分自身の火遊びがずっと長続きしたことを思い出して、菜穂美は何らかの驚きを隠せない。以前本人からそれとなく聞いた話では、紀子は結局、高橋とは二度会って何事もなく別れたらしい。紀子はそうして婦人に戻った。女遊びの激しい良人を持つ無口な妻に戻り、健やかな二児を見守る優しい母親に戻った。  だがもし菜穂美もまた紀子のように、元の生活に戻らねばならないとするなら、今のような楽しみを知ってしまった後で、一体どんな自分に戻ればいいのだろう?  休日の最後の昼下がりに、二人は名残惜しく海に出た。その一帯は吉田家の私有地である。二人のほかに人は見られない。澎湃(ほうはい)とする黒い波と白い飛沫の連弾する音楽が、壮麗な卵色の(みぎわ)に迫ってくる。  海は彼方の水平線で突然冴え冴えしい青になる。その黒と青の境界へ、不動の積乱雲がのしかかっている。その判然とした葉脈のような灰色の皴を数えているだけで、時間は忽ち過ぎ去ってしまうように思われる。そう思えるくらい、やはり二人のこの数日は、その最後の時まで、悠々自適とし過ぎている気がする。  この数日の最後の一日を彩るために、菜穂美はこっそり東京港区まで出かけて、年甲斐もなくかなり際どい水着を買ってきた。その白色の、布地の狭い、彼女の小さな茶色の乳暈(にゅううん)を辛うじて隠している黒のビキニは、店で見たときは買う前に試着するのも躊躇われたのに、いざそれを見た碧が興味津々に「大胆ですね」と言うと、菜穂美は自分の勇気を褒めたくなり、彼以外の目に付かないことで余計に、早々に老嬢の羞恥心を割り切ってしまった。  彼女のあの美しい背筋は、双肩の筋肉の不老の若さを保ち、それは軽くいかって、乳房の形をまだ崩させなかった。背筋は腰のくびれまで弓のようにしなり、その立派な臀部を後屈させ、Tバックの鮮明な割れ目を気高く上向かせているが、少なくとも海に脚まで浸かって碧と遊んでいる間、菜穂美はまだ半透明な花柄のレースのパレオを腰に巻いたままであった。 「水着で海に入るなんて何年ぶりかしら。こんなに気持ちが良いのね」 「ええ。僕も殆ど忘れてました。自分の身体が水の掻き方を覚えていたのすら、驚きました」 「たまには外に出るのも悪くないわね」 「ええ……」  海水浴を終え海から上がると、菜穂美は急に、海に浸かっている楽しさを失ったあまり、その楽しさの代わりの何かを見つけねばならない気がしてきた。  菜穂美は碧に先んじて砂浜を歩きながら、自然に腰紐を解いた。パレオが太腿を擦りながら落ちかかり、菜穂美の美しい豊かな臀部は碧の目には殆ど露わになった。その日焼けを知らない白い肌の奥には、未知の何かが隠されており、あの黒曜石のような海の深い輝きをまだ瑞々しく宿しているようにさえ思われる。  二人はあてもなく砂浜を歩き、最後に硬い枝と針のような葉を殆ど砂にしなだれた、老いて痩せた松の陰に落ち着いた。その晩夏の日光に敗れた薄い陰は、松の梢のあの雪の結晶のような幾何学的な紋様の揺らめく陰翳を、微小な石英のきらめく砂金のキャンバスに描いている。  菜穂美はさっき脱いだ長方形のパレオを、この松の根元の落ち葉混じりの硅砂(けいさ)の上に大雑把に敷き、その上に膝をつき四つん這いになって海の方を向いた。彼女の豊かな臀部の肉は、碧を見て膨らんで、腰の付け根から膨らみの先端まで目をなぞってゆくにつれ、口をすぼめて尖っていた。  そのとき碧は開けた海を眺めながら、菜穂美の中にまた別の海を感じていたのである。二人の真上で老いた松のか弱い枝葉は海風を感じて揺れた。小さな波が浜へ迫って砕け、また大きな波が浜へ迫って砕けるのを繰り返した。この海辺の揺動は、殆ど切り開かれた陸と海の交接のようであった。
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