第十五章

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 碧のスマフォの、サイト用の個人用連絡先宛てに、匿名の脅迫文が届いたのは、朱里と松風の共謀が決まったすぐ翌日の事件である。思い立ったが吉日というには、なんという迅速さであろう。 「お前のしてきた悪さを、お前の周囲の人間全員に送りつけてやろう。お前の内定先の企業にも、S駅近くの就労移行支援事業所の奴らにも、職安の担当のKにも、田舎の両親にも、それからあの可愛らしい女にも……」  この文面を見た碧は、その冒頭だけで戦慄した。あまりに動揺したため、数十秒も呼吸を忘れ、小一時間言葉を失った。この文面の内容がもし本当だろうと嘘だろうと、自分の身近に裏切り者がいないと、まずここまで詳細な内容は書けないだろうという脅迫文であったが、そういう考えに至ることすら不可能なくらい、碧は怯えた。  しかもこのとき碧は、恐ろしいと考えることについては尽きないくらい様々な問題を抱えていたのに、不思議なことにその問題の中でも一番程度の低い問題に最も脅かされていると言っても良かった。  碧は自分の命の問題とか、自分の社会的名声とか地位とか、そういうものは今更どうでも良かったのである。何故なら彼は精神障害者であるから。もっと恐ろしい形の有無を問わない差別や偏見を受けてきたから。自分自身すらもその差別や偏見を自分に向けていたから。  だから彼が最も恐ろしいと思えたのは、自分の裏切りが日葵に露見して、彼女がどういう形であれ自分に失望するということだった。もう今更言うまでもないことであるが、碧は日葵を愛していたのである。  碧の明瞭な日葵への愛の疑念は、複雑な経路を辿り、ようやく確信に変わったのだ。しかし真実の愛に至るまでの人間の苦労や労力というものほど、不毛で無価値なものはないのである。何故ならそれこそが、今碧を間違いなく脅かしているのだから。 『全ては僕自身の犯した過ちだ。僕は最後の最後に墓穴を掘った。だけどこういう手段でしか僕は僕自身を信頼することが出来なかった。日葵を愛している自分を信じることが出来なかった。もう今更後悔しても意味なんてない。なら僕は今すぐ何をすれば良いだろう』  この更に翌日、この脅迫文が真実であると告げるような急な連絡があった。碧の内定が人事的措置という文言によって取り消されたのである。碧はどんどん先が見えなくなってゆく気がした。  脅迫文はまた次のような重要な内容を含んでいた。〇月×日に、S駅近くのカフェで会おう。三百万円を用意して来い。それでこの話は無かったことにする、と。この身代金の金額は、碧の夜の収入の分け前から、大体今残っているであろう金額を、松風が予想したものである。
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