第十五章

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 朱里はその日、怨嗟に満ち溢れた恐ろしい気分で、S駅のカフェに向かった。既に秋ではあるが服装はそれにしてもかなり分厚い、慎重なもので身を偽っていた。  碧との約束の時間が来るまで、朱里はカフェに一人きりで、二時間も過ごした。厚く着込んだ服や帽子やマスクはその間に脱いでしまった。  ふと窓硝子に映った自分の姿を見て、朱里は悄然とした。そこに移っているのは誰だろう。まさか今自分はこんなに醜い女の顔をしているというのか。 『それにしても街の人はみんな、どうしてあんなに足が速いんだろう、まるで何かに怯えて逃げ回っているようだ。自分はこれから恐ろしいことをする。自分はこれから一人の男を殺すのだ。だが少し冷静に考えてみると、それで自分はどういう決着を見ることになるだろう? 少なくとも自分が一度愛した男を殺して、それでどういう満足を得られるのだろう?』  朱里は明らかに異常なメランコリックだった。既にそれはここに来るまでに五錠の薬を用いるくらいには彼女の持病であったが、その浮き沈みの激しさは殆ど多重人格的である。自分自身を制御できず、他人の感情が全く理解できず、ある決断が正しいと思えば、またある解決が誤りであるように思える。まるで一日ごとに自分は生まれ変わり続けているかのようである。  こういう朱里の精神障害は、幸か不幸か松風のある盲点をついていた。つまり朱里の病が、途中で彼女を全てどうでも良く思わせ、二人の計画を朝令暮改に投げ出させてしまうという間違いを犯しかねないということを、自分に酔っていた松風は見落としてしまったのである。  朱里はなんだか、自分の行動が、実は全て孤独の単純な裏返しのように思えてきた。つまりあの脅迫行為は、別の自分が、自分の野蛮で凶悪な人格が、そのときの自分の愛の欠落を餌に成長し肥大し、あんまり大袈裟な行為に及んだかのように思われてきたのである。  すると実におかしなことだが、朱里の病は、このとき彼女の裡に、全く新しい人格を産んだのである。朱里は急に、怖いくらい誰かを赦したくなった。そして彼女は突然謙虚になり、自分のこれまでの行いが全て過ちのように思われてきた。  朱里は確かに碧を愛していた。けれどその愛のために彼女自身さえここまで貶めた、それこそ朱里本来のあの専制君主的性格を、朱里の新しい人格が、逆に自己批判し始めてしまったのである。 『ああ、ああ。私はなんてことをしてしまったんだろう。こんな方法は間違っている。私は今も彼を愛している。それが今さら心が壊れそうなくらいよく分かる。私が彼を信じ愛し続けることが出来ていれば、私が自分自身を反省し、孤独に負けず、全て彼の責任だなどと思わなければ、こんなことにはならなかったのに』  窓硝子に反射するぐちゃぐちゃに乱れた髪を見ただけで、朱里はもう狂人である。それをさらに掻き乱して頭を抱えている朱里のもとへ、忙しい足音が近づいてくる。足音は二つである。男物の靴の音、そして女物のヒールの地面を突く音。  朱里はテーブルに殆ど倒れているところに声をかけられて、恐る恐るそれを見上げた。 「朱里さんだったんですね」  その美青年は明らかに気落ちしていて不幸な顔をしていた。しかし朱里は今、それはもうどうでも良かったのである。碧がこんなに醜い顔をした自分に気付いてくれたというささやかな幸福が、朱里に、自分の犯した罪や偽証を全て彼に打ち明け、心の底から謝ろうという気にさせた。
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