第三章

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 仕事終わりの田中(たなか)日葵(ひまり)は、殊勝(しゅしょう)な快活さを、いつもその足取りの軽快さに必ず持ちあわせていたが、今の彼女の足取りはもっと力強い、鋼鉄の甲冑(かっちゅう)を着ているようである。  金曜の夜は、日葵は毎週必ず碧と彼女の家で過ごす。この逢引きの習慣は日葵に言い得ぬ生活の無二の力を及ぼして、その幸福の実感はいまどきのあらゆる社会的疲弊に打ち勝った。  日葵は電車を降りる。ホームを抜けて階段を上る。やがて改札口に出る。すぐさま碧の姿を見つける。この一連は実に滞りなかった。  日葵は改札の中から手を振って碧に微笑した。碧も微笑した。夕刻の改札前の人通りはかなり夥しいが、長身な女性の日葵は、大抵一目で認められる。日葵は一度改札を出ようとしたところ、改札機の警音器が鳴って頭を抱えた。チャージが切れていたのである。  こんなふうに、日葵は何かと忘れっぽいために茶目っ気を感じさせて愛おしいが、このけたたましい改札の警音器が鳴ったとき、日葵はあの日の出来事を思い出して、ほんの一瞬ながら慄然とした。  搬送中の救急車の中は意外と広いことを、日葵は身をもってよく知っていた。救急搬送の無情なサイレンが、夏の午後の余熱の街道を走り抜けてゆく。意識不明の固く冷たい手を握りしめて、その名前を何度も呼びながら声を()らした日葵は確実に、美青年の真青な死に顔を見て、泣いていたのである。  救急車が舗装路の段差で跳ね上がり、日葵の目元から、一粒の氷のような涙が落ちて、死体の頬にぶつかって砕け、細かい水粒が降りかけられたように散らばった。そのとき青白い顔の死体は目を見開いた。碧は息を吹き返した。  二週間にわたった碧の入院生活中、日葵は徹夜で彼に付き添って、彼の枕元で俯いたまま林檎を何個も剥いた。もし自分が合鍵を忘れていたら、ほんの一瞬でも死に神にその猶予を許していたら、碧は死んでいたかもしれない。  剥き落とされた赤い螺旋の皮から黄白色の球体が露わになり、日葵にはそれが痛々しいほど綺麗に感じ、まるで自分ではない誰かが、さも他人事のように冷静にそれを切り分けているような気がするのに、やがてこの球体を切り分けている者の正体が己の安心であると理解すると、愛する者と一緒に失いかけた感情が、不如意な速度で取り戻されていく気がして胸が苦しい。自分が優しい感情を取り戻すには、碧の体調が万全になるくらいの、彼に寄り添っていることが許されていられるくらいの、全てを納得するのに充分な時間が必要な気がする。  改札を抜けて日葵が碧に駆け寄ってくる。日葵が「待った?」と尋ねたかと思えば、碧は答えるでもなく日葵のピーコートの腰を抱き寄せて、その唇に軽く接吻(せっぷん)した。一連の流れは実に一瞬のことである。雑沓はそれに気付かない。すると雑沓はもはや絵画的背景に据え置かれ、日葵は唇を緩ませて照れ臭い顔をした。  ……日葵は自分が首に巻いていたマフラーをほどき、ブーツの踵を浮かせて碧の首に巻きつけた。 「ありがとう」 「どういたしまして。オフィスを出てから忘れ物に気付いてね、電車一本逃しそうになった」 「一本くらい逃しても変わらないんじゃない?」 「やだなぁ、そんな野暮なこと言わないでよ」 「で、何を忘れたの」 「それそれ。何が酷いって結局なにも忘れてなかったの。私たちまだ若いのに、最悪じゃない?」 「いや最高だよ。面白い」  碧が子供っぽく笑うと、日葵は恥ずかしそうに碧の肩を軽くはたいた。大らかな日葵といる限りは、碧の神経質な性格は様変わりして、あの精神を病んだ者に避けられない感情の停滞を恐ろしいくらい欠いていた。つまるところ、日葵は碧のあの簡単に人を寄せ付けない美貌や、彼の無意味な神経質に気付けないくらいには、魅力的なほど鈍感だったのである。  女の放つ言葉はどれも、それを受け取る男の側からすると、感情という題名の薄手の辞書をめくりながら、一言二言補足の必要を免れないものだが、日葵にはそれを要しない優雅さがあった。『余裕のある男性』というありきたりな女の理想像を言葉にした表現には、『自分を養ってくれる、或いは自分を気にかけてくれる経済的精神的余裕のある男性』という補足が欠かせないし、『清潔感のある男性』という同様の表現には、『容姿に優れていて、ケアの要らないくらいのイケメンか、不細工だが自分の隣に立っていても他人から変に思われない清潔感のある男性』という補足が不可欠である。馬鹿な男はいつもこういう女の隠語に惑わされて、隠語を弄した馬鹿な女も大抵勝手に暴走し始めるから、所謂『男女の仲』という幼稚な表現は、常に滑稽な事件を経て下らない顛末へと至るものである。
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