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日葵は自分の耳を疑い、自分の心を疑い、そしてこの世界を疑いたくなった。まさか碧が自分を裏切って、そんな恐ろしいことをしていたなどと、日葵は気がおかしくなりそうだった。
「彼は女を沢山騙し、利用していたんです。あなたもその一人なんですよ。あなたがあの男をどれだけ愛していたか知りませんが、あいつは女に狂い借金まで作って、その連帯保証人を勝手にあなたにして逃げた。これがその誓約書です。今頃あの男は、フィリピンかタイかカンボジアか、そのあたりにいるに違いない」
松風は偽造した誓約書を日葵に見せた。松風の筋立てでは、碧は歌舞伎町のホステスに死ぬほどうつつを抜かし、消費者金融で三百万の借金とその利子を作り、しかもその責任を全て日葵に擦り付けて自分は国外へ飛んだというのである。
「そんなはずありません。私と彼は田舎から一緒に出てきて、もう七年以上一緒です。彼がそんなことをするはずない」
日葵がそう言って碧に電話を掛けようとしてスマフォを持ち出すと、松風はそれを邪魔しようとする。日葵はつきまとう彼の手を払おうとしてスマフォを手放してしまい、それが床にぶつかって静かな店内に大きな音を立てた。
「おっと、余計なことをしようとするからスマフォが一台お釈迦だ。もう諦めるんだな。俺はこの世界は長いが、そういう女の弱みに男はつけ込むんだ。あんたと同じような女なんていくらでも見てきた。もうそういう台詞は懲り懲りだ。飽き飽きした。とにかくこの三百万を明日にでも用意しろ」
場所が悪いと言い、松風は席を立った。そして呆然と冷静さを欠いた日葵に他の場所で続きをしようと言って、二人は店を出ることになった。
秋の空は寒かった。日葵は近頃勝手に手でお腹をおさえるようになった。お腹の中の子供が、いよいよ心配に感じるようになりだしたのである。もう一人の存在を自分の内側に抱える人間は、それだけで明日の身も知れないと感じることが多くなるが、そんな時期の悪いときに、このような事件は日葵の悪夢だった。
日葵はこういうことに慣れていない。というよりこのような事件に慣れているような人間は異常であるが、間違いなく日葵のような純粋な人間が巻き込まれるような事件ではない。
十五分ほど歩いて、「ここだ」と松風は住宅街の細い道路で立ち止まった。日葵は驚愕した。松風が立ち止まったのは、日葵も良く知るファーネスの丁度裏手である。
もうすっかり夜である。ファーネスは、先日代表の小田の実家に不幸があり、その喪に所員が出席するために今日の午後から閉所され、一階の活動場所や面談室も、二階の面談室も事務所も、一つも灯りがついていない。
「ここの社長はうちから借金していてね。この事業所も抵当に入ってるんだ」
松風は一階の面談室になっているキッチンの裏口の扉を開けた。日葵も黙って松風の後から入った。
裏口のドアノブが、何か重い物で殴られ、今にも外れそうにぐらついている。松風が予めドアノブの鍵を鈍器で殴って壊しておいたのである。長い利用期間を経て、ファーネスの裏口は、不運なことに警備システムの唯一の穴であることを松風は知っていた。
「さあ座るんだ」
天上の電気も点けずに、面談室の頼りないテーブルランプだけ点けて、椅子に日葵を座らせると、松風は彼女の首筋を下衆な目で視姦した。碧などには勿体ない女である。この女を今すぐ俺の物にしてやると松風は考えた。
松風は急にいきり立ち、日葵に襲い掛かった。日葵は急なことで反応できなかった。松風は日葵を壁際に押さえつけ、持てる力の限り無理矢理その首を絞め、抵抗してくる日葵の手を噛んだ。
日葵は最初苦しみのあまり、自分の首を絞める松風の手を引き剥がそうと必死でそれを掴もうとした。だがその手を松風に噛まれ邪魔された。松風は日葵に抵抗を止めさせようと頬をぶった。日葵の肩を殴った。そして次に腹を殴ろうとしたとき、日葵は迷うことなく腹を手で庇った。日葵の母性は既に、自分自身など犠牲にすることを厭わなかったのである。
こんな日葵の聖母のような精神が、窮地に立たされた彼女の瞳にある静かな輝きを見出した。壁際に追い詰められ、拘束から抜け出そうと必死に顔を背けている日葵のすぐ目前に、キッチンの食器棚がある。その薄いガラス戸の奥の闇の中で、何かが暗く輝いている。
日葵の長い腕ならば、力いっぱい伸ばすことができれば、それに届きそうである。じたばたしながら日葵はどうにかガラス戸を開けることに成功した。そしてさらに持てる限りの全身全霊で手を伸ばし、その硬い鉱石の塊のようなものを握り、思い切り振りかぶった。それは松風の後頭を貫いた。松風は失神して床に崩れ落ちた。
まだ日葵の手に握られたままの、その側面の円形の模様は、松風の血できらめいていた。黒飴地に金斑点の、闇の中でもきらめく金茶窯変釉は無事である。
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