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 大切な決断を先送りしたときはいつも、真夜中に背脂が山盛りのラーメンを(すす)る行為と同じ背徳感を味わう。そのふたつの違いと言えば、せいぜい後者は腹回りに要らぬ脂が蓄積されるという点くらいで、いつまで経ってもToDoが片付かない焦燥感や、何もできない罪悪感で自らの健康を害する……という部分は共通している。  この会社ほんとにくそだなー、とどれだけ思っても転職に踏み切れなかった若かりし頃の自分を思い返すけれど、今となっては河原で石から石へと飛び移るよりも簡単に退職届を出せるようになった。そうやって自らの生活の根幹を成す「仕事」は簡単に変える決断を出せるのに、私は「恋愛」というものに対してだけは、いつまでも臆病なままだ。  私は隣で海を眺めている彼のことが好きで、彼だって海を眺めている自分を見つめている私のことが好きだってことはハッキリしているのに、私と彼の間は深い海溝が隔てているように、今も離れている。どっちから橋を架けるべきか、船を出すべきか、飛行機で飛び越えていこうか。二人ともが同じ悩みを抱えたまま、最後の決断を先送りし続けている。 「不思議だなあ」  名残惜しさが漂う休日の夕映えの中、彼は空を見上げながらのんびりとした声をあげた。なにが、と訊ねる。 「おれらはここから見える範囲しか感じられないだけで、実際はこの空も海も世界と繋がってるんだろ。そう思うと不思議だなあって」  私からすれば、彼のことのほうがよっぽど不思議だ。お互い社会人になってしばらく経ち、どちらも既に新人とは言えないくらいの年月が過ぎているのにもかかわらず、どうして彼はいつまでも、こんな曇りなき眼を保ち続けていられるのだろう。目の前に広がる海の深い紺碧を彩る、ぷかぷかと揺れるゴミにしか目が行かなかった自分を恥じた。 「そうだね。でも私は、空や海以外でも感じる時があるよ」 「どういうとき」 「通勤で、電車乗るじゃん」 「乗るね」 「マンションのバルコニーに干してある洗濯物とか、家々の明かりを見てると(こんなにたくさんの人が生きているのに、この人たちは私のことをまったく知らないまま死んでくんだなー)って思ったとき、不思議さを感じる」  死んでく、は言い過ぎたなと反省する。「一生を終える」とかのほうがよかったかな、と。意味合い的には同じだと思うし。  彼は、あーあー、と大きく頷いて笑った。彼相手にはいつも自然と、自分の中で濾し取られないまま言葉が滑り出てゆく。彼は私を頭ごなしに否定したりはしない……という安心感がそうさせているのだと思う。
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