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 数年前に世界を襲った流行病のせいで好きなアーティストのライブツアーが延びたときも心にくるものがあったが、そちらは最終的に全公演が中止になってチケットが全額払い戻された。ぽっかり空いた思い出のページはべったりと糊付けして、もう二度と開くことはない。  じゃあこっちは、どうなる。というかこいつ絶対に私のこと好きなのに、一体いつまで思わせぶりな態度をとって引き延ばすつもりなんだろう。海の向こうで奇祭に踊り狂う原住民とか、この星を包む大気圏に突っ込んで燃え尽きる石とかじゃなく、手を伸ばせば触れられる私に思いを馳せろ。いやもう馳せなくていいから思いっきりぶつかってこいよ。あんたが固いと思っている壁は、瞬時にあんたを包み込んで二度と離さないふわふわのビーズクッションだ。ダメにしてやるからこっち来いよ。一緒にダメになろうよ。  そんな気持ちを込めながら、仕事終わりに彼と食事するときは退社前に少し化粧を直したり、酔って陽気になったふりをして身体に触れてみたりした。休みの日に出かけるときはいつもと違う香水を振り、話の端々に「今度は〜」とか「次は〜」とか未来につながるフレーズを織り交ぜて、あの手この手で(私もあなたのことお慕いしておりますのよ)と匂わせてみた。  でもぜんぜん彼はダメになってくれない。私のほうへ傾いてくれない。  それでも私は絶対に、こちら側からは告白しない。  ここまで来るともはや決意とかポリシーとか、そういうきれいな言葉ではまとめられない。意固地になっている。そういう自覚はある。あくまで最後のスイッチを押すのは彼の手でなければならず、かつ、私がその上から手を被せて押してはならないのだ。  にしたって、あんた、今日はどうすんの。また順延? これが小学校の運動会だったら、もうそろそろ延期しすぎて木枯らしが吹くくらいの季節感だけど。  念が通じたのか、彼はちらりとこちらに視線を向けてから、そっと口を開く。 「あーあ。天文学的な確率で、あした会社に隕石でも落ちないかな」  ああ、ダメになろうよっていうか既にダメになってたんだな、彼は。そうやって口にはしなかったが、はっきりと落胆した。会社に隕石が落ちたり燃えたり吹っ飛んだりすれば、明日から始まるはずの仕事は確かに先延ばしになるね、そうだね。そういうとこがダメなんだよ。ムカつく。  私だって、大切な決断を一方的に彼へ委ねようとしているところがダメだって分かっているけれど、この決心だけは曲げない。曲げたくない。早く、彼に告白してほしい。雨だれが石を穿つように、私も決意を曲げてしまいそうになる。  ――そうだ。
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