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「不思議だな」
彼のことだから、まだしばらく無言でうんうんと考え続けるだろう……と思っていたのに、その唇が動くのは案外早かった。
私は確かにそのことに驚いていたけれど、それを感づかれないようにしながら「なにが」と訊ねる。
「物事が自分の前を通り過ぎちゃってから後悔することって、ないか」
どくん、と胸が大きく跳ねる感覚を味わった。
彼はきっと、私が村山さんへ傾こうとしていると勝手に解釈し始めている。尚且つ、今の言葉を額面通りに受け取るなら、そのさまを黙って見送ることは、彼の本意ではないらしい。
つまり、それが意味するのは――。
「過ぎてないよ」
咄嗟に口走っていた。思わず自分の口元を手で押さえそうになったけれど、ぐっと堪える。そんなことをしてしまっては、全部ばれてしまう。嘘をついてまで、彼のほうから告白するように仕向けようとしていたことが。
それでは意味がない。種明かしをするのは、まだまだはるか先。
いつか今日の出来事を笑い話にできるくらいに、もっと深い関係になってから……と決めている。
いずれそんな日が来たら、話してあげようと思う。私も彼のことがずっと気になっていたこと。でも、絶対に彼から告白してもらいたいと思っていたこと。
そして、最後の最後にとうとう我慢ができなくなって、ほんの少しだけ、彼の背中を後ろから指先で押してしまったこと。
「え?」
「だから、きみの前はまだ通り過ぎてないって。……今なら」
私の言葉に、夕陽に照らし出された彼の瞳が揺れている。
直後、何度も繰り返されてきた延期が終わった瞬間。
私は彼の前で、初めて声をあげて泣いた。
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