パス

5/5
前へ
/5ページ
次へ
「不思議だな」  彼のことだから、まだしばらく無言でうんうんと考え続けるだろう……と思っていたのに、その唇が動くのは案外早かった。  私は確かにそのことに驚いていたけれど、それを感づかれないようにしながら「なにが」と訊ねる。 「物事が自分の前を通り過ぎちゃってから後悔することって、ないか」  どくん、と胸が大きく跳ねる感覚を味わった。  彼はきっと、私が村山さんへ傾こうとしていると()()()解釈し始めている。尚且つ、今の言葉を額面通りに受け取るなら、そのさまを黙って見送ることは、彼の本意ではないらしい。  つまり、それが意味するのは――。 「過ぎてないよ」  咄嗟に口走っていた。思わず自分の口元を手で押さえそうになったけれど、ぐっと堪える。そんなことをしてしまっては、全部ばれてしまう。嘘をついてまで、彼のほうから告白するように仕向けようとしていたことが。  それでは意味がない。種明かしをするのは、まだまだはるか先。  いつか今日の出来事を笑い話にできるくらいに、もっと深い関係になってから……と決めている。  いずれそんな日が来たら、話してあげようと思う。私も彼のことがずっと気になっていたこと。でも、絶対に彼から告白してもらいたいと思っていたこと。  そして、最後の最後にとうとう我慢ができなくなって、ほんの少しだけ、彼の背中を後ろから指先で押してしまったこと。 「え?」 「だから、きみの前はまだ通り過ぎてないって。……今なら」  私の言葉に、夕陽に照らし出された彼の瞳が揺れている。  直後、何度も繰り返されてきた延期が終わった瞬間。  私は彼の前で、初めて声をあげて泣いた。 /*end*/
/5ページ

最初のコメントを投稿しよう!

5人が本棚に入れています
本棚に追加