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「ん……ここは一体?」
俺は目を覚ました。カウンターテーブルから顔を上げ、まぶたをこする。
「ご気分はいかがですか?」
白いワイシャツに黒ベスト、その胸元でグレーの蝶ネクタイをさりげなく結ぶ初老の男が微笑んでいた。
「ああ酒好さん。悪い、いつの間にか寝てたみたいだ」
「どうかお気になさらず。こちらとしてはずっとゆっくりされていても構わないですから」
酒好と呼ばれた男は相好を崩す。
「ところで酒好さん」
頬杖をつく俺に、
「何でしょう?」
酒好は穏やかな声を出す。
「俺、寝る前に何の話してたっけかな? 飲み過ぎたせいかちっとも思い出せないんだ」
頭を抱えていると、
「確か、何かがのびるやらのびないやらと話されていたような……」
酒好が顎に手をやり口にした。
「それだそれ! のびないんだよ」
「何がです?」
「何もかもがさ」
ため息をついた。辺りを見回す。ぶら下がるランタンに丸太で組まれた壁や天井、どこか温もりを感じさせる木目調のテーブルと椅子――まるでロッジを思わせるバーの店内は多くの客で賑わっていた。
「例えばあそこの客」
右斜め後ろを顎でしゃくる。高そうなスーツに身を包む二人組の男が、テーブルを挟んで向かい合っていた。
「どう見てもエリートだろ? 新卒から挫折知らずで出世街道まっしぐらってやつだ」
「あなただってご立派ではありませんか」
「冗談はよしてくれ、万年係長だぞ? このポジションについてからもう八年……いや十年か?」
「またまたご謙遜を、たくさん稼がれてるでしょうに」
グラスを拭きながら柔和な笑みを浮かべる酒好に、俺は口を尖らせた。
「要は頭打ちさ。何せ営業成績をのばせないもんでね」
「言われてたのびないお話、ですか?」
「それだけじゃない」
左斜め後ろの座席に目配せする。薄手のカーディガン、丈の短いスカート、細やかに光るブレスレット――大学生らしき女が四名、スマホを片手に盛り上がっていた。
「飽きもせずによくやるよ」
「何をです?」
「えすえぬえす、というやつだ」
女達はテーブルに並べられた色とりどりのカクテルグラスには目もくれず、熱心にスマホを触っている。
「写真や動画をネットに上げての自慢大会さ。バカバカしい。ここは酒を撮るのではなく飲みにくる場所なのに」
「僕としてはお店のアピールになるのでありがたいんですがね」
「閲覧数がのびるかのびないかが勝負の分かれ目らしい。知ってるか? 人気配信者はアレで結構稼げるんだとよ。あんな遊びで周りからの評価や待遇が変わるだなんて世も末だな」
「随分とお詳しいんですね。エスエヌエス、あなたもおやりで?」
酒好に訊かれ、
「まぁお遊び程度には」
左手で握っていたスマホを素早くポケットに入れた。
「それより一番の問題はこれだ」
俺は自分の頭を撫でた。
「ご覧の通りの有り様さ」
つるりとした感触。薄くなり始めている頭頂。
「フサフサだった頃が懐かしいよ。本当にどうにかならないもんかね」
「なりますよ」
酒好の言葉に目を見開いた。
「一体どうやって?」
「少し待ってください」
俺が頷くよりも早く酒好はバックヤードへと入っていく。と、何かを手にすぐ戻ってきた。
「よろしければ一杯いかがです?」
酒好がテーブルに置いたものを見て、息を呑んだ。
「これは……!?」
目の前にあったのは縦に長いグラスだった。天井につく手前の高さまでのびるガラスの内側に、気泡を踊らせる琥珀色の液体が満たされていた。
「『ノビール』と呼ばれる新作なんです」
酒好は目尻に皺を寄せた。
「このビールを飲めば立ち所にのびますよ」
「のびるって一体何が?」
「それは飲んでみないと分かりません。ただ確実に身の回りにある何かがのびるんです」
「例えば営業成績とか閲覧数とかでも?」
「可能生としては大いにありえます」
思わず鼻で笑った。
「そんな夢物語のような話があるわけ」
「ない、と思われるでしょうが事実なのです」
酒好の真剣な眼差しに口ごもる。
「いつもご贔屓にしてくださっているささやかなお礼です。この一杯は無料で構いませんので……ぜひ」
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