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二 白椿の落花
純くんに手を引かれ初めて行った学校の屋上は、蕩けるような甘い囁きが聞こえる場所だった。荒い息づかいとお互いの名前を呼ぶ声がする。向こうはこっちに気づいてない。なにが起きているのか理解すると急に恥ずかしくなって、純くんの手を強く握った。彼は立てた人差し指を口元に持っていき、しーっというポーズをとる。純くんも少し、顔が赤い。
わたしたちは音を立てないようにドアを閉め、二階まで一気に階段を降りるとそこでようやく口を開いた。
「い、今のってさ、同じクラスの」
ほとんどの生徒が下校した校内は静かで、純くんの声が思ったより廊下に響く。わたしはそれよりもさらに声をひそめて「うん……莉里ちゃんと桃ちゃんだったね」と答えた。
仲がいいとは思っていたけれど、まさかあんな関係だったなんて。思い出すと身体の奥がきゅっとして、また少し恥ずかしくなる。
「あのさ、雪」
「今日はもう、帰ろうか」
なにかを言いかけた純くんと声が重なって、でも彼が譲歩して「うん」とぎこちない笑顔が返ってきた。
「あ、でもその前に……」
彼の指がわたしの頬に触れる。顔を上げると純くんの顔が近づいてきて、そのまま目を閉じて口づけに応えた。
唇が離れて再びお互いの顔が見えると、二人とも照れ笑いをした。まだ少し緊張する。でも幸せな瞬間。
わたしと純くんは付き合って三ヶ月。二年生になって同じクラスになり、初めて知り合った。東京に大きな花が咲いて学校が緊急時の避難所として使われるようになったけれど、最初の頃は警報が鳴るたびにみんなパニックを起こしていた。地震や火事の避難訓練なんてほとんど意味を成さないってことがよくわかる。押して走って叫んで、どこに逃げようもないのに校内はおしくらまんじゅう状態になった。そんな混乱の中でわたしは転んでしまい、足を挫いて困っていたところを純くんが助けてくれた。吊り橋効果、というものかもしれない。わたしたちはそれからお互いのことが気になるようになって、六月に純くんの告白で付き合い始めた。
優しくていつもわたしを気遣ってくれる純くん。こんなに素敵な人と恋人同士になれたんだから、吊り橋効果も悪くないって思う。
純くんはなにかあったら心配だからといつも家の近くまで送ってくれる。繋いでいた手を離してばいばいと振ろうとしたとき、彼の手がほんの少しだけ名残惜しそうにわたしの指先を引っかけた。
「……純くん?」
「……また明日」
何事もなかったように純くんが手を振る。わたしも手を振って、去っていく彼の後ろ姿を見送った。
最近の純くんはいつもと違うなと感じることが多い。考えごとをしているのか、ぼうっとしていたり思い詰めた表情をしていたり。……なにも心当たりがないわけじゃない。もしかしたら、だけど。
彼は、先に進みたいと思っているのかもしれない。
今日だってすぐに帰る予定だったのに急に屋上に行ってみようなんて言って――結局なんのために行ったのかわからなかったけれど。
まだ付き合って三ヶ月……だけど、男の子はやっぱりそういうことに興味があるのかな。莉里ちゃんと桃ちゃんの声を聞いて、純くんはどう思ったんだろう。あんなふうになれたらって、思ったのかな。
わたしは……。
わたしは、そんなの、必要ないと思ってる。会話して、お互いの顔を見て、手を繋いで、キスをして。それだけで充分幸せ。心が繋がっていれば、身体の繋がりなんていらない。
一年生のとき、同じクラスの子が言っていた。一線を越えたら彼氏が変わっちゃったって。それしか考えてない、あたしのこと大切に想ってくれてるのかなって。その子は不安になって、結局上手くいかなくなって別れちゃったみたい。もしかしたら、わたしたちもそうなってしまうかもしれない。お互いの心がすれ違って、わからなくなって、離ればなれになってしまうならそんなことしなければいい。
きっと純くんならわたしの考えをわかってくれる。だって優しくていつもわたしを気遣ってくれる、素敵な人だから。
――純くんの姿が見えなくなるまで見送ってから玄関のドアを開けた。お母さんのパンプスと見慣れないスニーカーが転がっている。我が家ではよくある光景で、わたしは二足をきちんと揃え、その隣に自分のローファーを並べた。案の定、リビングからはお母さんの甘えるような声がして、それをできるだけ聞かないように二階の自室へ向かう。部屋へ入ってドアを閉め、お母さんの声が聞こえなくなってようやくほっとする。
お母さんはいつからこうなんだっけ。わたしが小学生の頃にはもう、そうだった気がする。きちんと思い出せないくらい幼い頃から。物心ついたときにはお父さんはいなくて、どこにいるのか、生きているのか、顔や名前すらも知らない。お母さんは惚れっぽいらしく、すぐに誰かを好きになる。でも燃え上がるのも早ければ鎮火も早くて、気づくと失恋したと言って泣いていたり、違う男の人を家に連れて来ている。
お父さんとお母さんの間にどんなことがあったのかはわからないけれど、幸いなのはわたしがお母さんに愛されているってこと。娘が家にいるにも関わらず男の人と裸で抱き合っているような母親だけど――子どもへの愛があるなら母親としてそんな姿は見せないと言う人もいるかもしれないけれど――温かいご飯を用意してくれるし、毎日会話もあるし、小学校や中学校の行事には欠かさず来てくれたし、わたしを邪険にすることもない。もちろん暴力を振るわれたこともない。
ただ……振られたと言って泣きながらお酒を飲んでいるときはなんと声をかけたらいいかわからなくて、今みたいに知らないふりをしてしまう。辛い思いをするってわかってるのに、心の繋がりだけじゃなく身体の繋がりまで求めるのはどうしてなんだろう。そんなふうに何度も涙を流すってわかっているなら、やめたらいいのに。
わたしは昨年のクラスメイトやお母さんみたいに泣きたくない。ずっとずっとこのまま、彼と幸せだけを感じていたい――。
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