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何者かによって竜胆が切られたことは、近隣で起きたトラブルとして数日後には学校から配布されているタブレットで配信された。学校側が知っているということは、付近の住民にも知れ渡っているはずだ。
ぼくとりかが学校帰りに公園へ行くと、予想していたとおり、竜胆が咲いていた辺りには人がいた。六十代から七十代くらいだろうか、公園の入口まで聞こえるほどの大声で言い争っている。それも複数人で。花を嫌い、駆除することを望んでいる人たちと、それに反対する人たちだろう。誰がやったんだとか、花はすべて駆除するべきだとか、何度も繰り返された論争が飛び交う。しまいにはまったく関係のないことで互いを罵り合い、傷つけ合っていた。
「醜い」
りかはそう言うと、公園を背にして歩き出した。そのまま一言も喋らず、別れ際に「ばいばい」と力なく手を振っただけだった。どうしたら彼女を元気づけられるだろうと考えたけれど、妙案は浮かばない。おかしくなってしまったこの世界で十七歳の高校生にできることなんて、多分、なにもない。
その夜、りかから公園に来てほしいと連絡があった。彼女から急な呼び出しなんて初めてで、なんだか胸騒ぎがして慌ただしく家を出た。
着いてみると、彼女はいつものベンチに座っていた。公園には街灯がいくつか設置されているが、その明かりは充分な光量とは言えず、ぼんやりと辺りを照らしているばかりだ。
「りか」と呼びかけると、彼女が振り向いた。前髪が影をつくって表情はよくわからないが、口元は微笑むように緩やかな曲線を描いている。りかは紺のような黒のような丈の長いワンピースを身につけていて、光の当たらない場所にいたら闇に溶け込んでしまうのではないかと思うような出で立ちだった。ぼくはなぜだか焦燥感に駆られ、彼女の隣に座ると色白の手をぎゅっと握った。
「どうしたの? こんな時間に」
「ん? うん……」
放課後の会話の延長のように、りかはなんでもないことを話す。中学校から一緒だったぼくらが出会い、恋人同士になるまでのことや、高校受験のこと、近所で見かける野良猫のこと、今のクラスのこと……一つひとつを宝物みたいに、母親が我が子を慈しむみたいに優しい顔つきで。
「ねえ紫苑、わたしを殺してほしいな」
あまりにも穏やかな時間だったから、唐突に訪れた告白に彼女がなにを言っているのか一瞬理解できなかった。
「お願い、もう嫌なの、こんな世界。人と人が争い続けて、嫌い合って」
「で、でもだからって、そんなこと」
「誰が誰を殺したって、もう罰を与える人はいないでしょう。だから殺して。死にたい。あなたに殺してほしい」
鳶色の瞳は真剣だった。揺らがない意思をぼくに訴えかけている。
りかが話すのをやめると、辺りは静寂に包まれた。ぼくはぐるぐると思考を巡らせる。自分にできることはあるのか。なんと返せばいいのか。この目から顔を背けていいのか。
――ぼくにできるのは。
白く細い喉に手をあてがい、力を込める。
りかは苦しそうに、でも幸せそうに、ありがとうと口を動かした。
♦︎♦︎♦︎
どれくらいそうしていただろうか。きっととうに彼女は息を引き取っていたのに、ぼくはいつまでも手に込めた力を抜けずにいた。どこかで警報が鳴っている音が聞こえてようやく手を離すと、りかの首筋には赤い痣ができていた。
りかは身体のありとあらゆるところから体液を垂れ流していて、けしてきれいとは言えないありさまだったけれど、でもそれでも彼女が笑っていたから、それでいいんだと思った。
一度家に戻ってシャベルを取って来ると、竜胆の咲いていた場所に穴を掘った。掘るだけで何時間もかかって、ようやくりかの身体をその墓に納めたときにはぼくは泥だらけでへとへとで、もう朝陽が顔を出していた。りかがいる場所は柔らかで湿り気のある土で蓋をされている。真新しい墓に眠る彼女の様子を思い浮かべながら、ぼくはしばらくその場でじっとしていた。
彼女はきっと、美しい花になるだろう。
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