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クローゼットから厚手のコートとマフラーを引っ張り出して家を出た。一月の夜の空気はとても澄んでいて、静かで、月がきれいだ。これで花とか虫とか、そんな問題がなけりゃぶらぶら散歩でもしたい。吐いた息は白く、夜空に溶けるように消えた。
今夜行くのはホテル街の近く。家からは少し距離があるけど、近場ばっか行ってるとバレるかもしれないからたまにこうして足を伸ばす。それに、放棄された店だ。仕入れがあるわけじゃない。日頃から新規開拓もしておかないと底が尽きてしまう。
看板のネオンがところどころ光る通りを横目に、目当てのコンビニへ向かう。こんなご時世だから当たり前だけど、全然人がいない。目的地にも先客はなし。何度か辺りを見回して、半分開いたドアに身体を滑り込ませた。
まずは食料。カップ麺や酒はもうなに一つ残っていない。お菓子はキャラメルやガムがいくらかあった。とりあえずそれらをポケットに入れて、それから日用品の並ぶ棚へ。だいたいドラッグストアで補充するから特にめぼしいものはないと思うけど……。
ひととおり店内を物色し、入ったときと同じようにそっと抜け出す。店を離れようと足を踏み出した瞬間、「はあ!?」と叫ぶ声に思わず身体が強張った。
見つかった!?
……いや、おれじゃない。あの通り――ホテル街のほうから男と女の争う声がした。帰るにはそこの前を通るのが一番早いんだけど……ちょっと気まずいような。まあ、知らない人だしシカトすればいいか。
争い合う声はだいぶ大きい。もうほかの男に会うなとか、気持ち悪いとか、聞いているとなんとなく男が女に嫌がられているような感じだ。通り過ぎるときにちらりと見ると、やけに見覚えのある人物がそこにいた。
千鳥鈴香だ。
私服だけどあの明るい髪色にあの声、間違いない。
千鳥は男に腕を掴まれ、それを必死に振り解こうとしていた。クラスメイトではあるけどまともに会話をしたことはない。向こうがおれを認識しているかどうかもわからない。うん、やっぱり知らないふりしよう。めんどうそうなことには関わらないのが一番だ。うん。
……うん。
なんでおれ、千鳥のほうに走ってんだろ。
「や、やややめろよ! い、嫌がってんだろ!」
振り絞った声が思ったより震えている。かっこ悪い。でも、もう後戻りできない。二人は急にやって来たおれに驚いてたけど、すぐに男が睨んだ。
「なんだおまえ、スズの知り合いか?」
「く、クラスメイトだよ」
男が鼻で笑う。これは自分とスズの問題だとおれをあしらうと、千鳥の腕を強く引いた。痛い!と彼女の叫び声が響く。とっさにポケットの中のお守りに手を伸ばした。火を点けて男の足元に放ると、しゅるしゅると火の粉を撒き散らしながらお守りが回る。
「わっ! んだよ、これ!」
男が気を取られたすきを狙って、今度はおれが千鳥の手を引いた。彼女の身体はなんの抵抗もなくおれの後をついてきて、そのまま二人で走った。一つ、二つと路地を曲がると次は前から数人の足音と声。
「やばっ!」
千鳥が声を上げる。自衛隊の奴らだろう。騒ぎすぎたんだ。見つかるとめんどくさい。
「こっち!」
目に入った家の庭に駆け込んで、塀に身体を沿わせるようにして縮こまった。不法侵入なんていまさらだ。
自衛隊が通り過ぎると、途端に辺りは静かになった。必死だったから気づかなかったけど、ありがたいことに誰も住んでいない家――コンビニと同じだ――らしい。安堵していると、後ろで千鳥の笑い声がした。大きな音を立てまいとしているのか、押し殺すように口に手を当てている。しばらくして「はあーっ! びっくりした!」と笑顔を見せた。月明かりでほんの少しだけ見える千鳥の表情になぜかちょっとドキッとして、つい目を逸らした。……不自然だったかもしれない。
「ご、ごめん、びっくりさせて」
「まさかあんな所で菊池くんに助けてもらえると思ってなかったからさ」
「……おれのこと知ってんの……?」
「クラスメイトだもん、それくらい知ってるって!」
「そ、そう……」
まさか名前を知られていたとは思っていなかった。上手い返しが思いつかなくて自分にやきもきする。こういうときもっと流暢に会話ができれば――。
「ありがとね。あいつ急に病み始めてさ、ほかの男と会うなとか言われて。菊池くんはなんであんな所にいたの?」
「えっと、おれは、これ」
ポケットからキャラメルを一箱取り出した。
「……コンビニから盗ってきた。良かったら、どうぞ」
千鳥が目を丸くする。あ、盗んだ物なんて渡されても困るか。
「ごめ――」
「まじ!? 菊池くん、見かけによらずやるじゃん!」
おれの手から箱がするりとなくなっていく。
千鳥はさっそくキャラメルを一粒取り出すと口に放り込んだ。
「ありがと! 銀歯取れないよーに気をつける」
そう言ってまた笑った。
「銀歯、あるの……?」
「そーそー、左下の奥歯。見える?」
小指で広げながら、千鳥が大きく口を開けた。なんだろう、なんだか見てはいけないものを見ている気がしてさらにドキドキする。
あんまりよくわからなかったけどとりあえず見えたことにして、おれもキャラメルを開けた。
「あ、ねぇ、さっきのあれ、なに? 花火?」
「ん、ああ、うん。ネズミ花火」
「お守り? どーいうこと?」
また笑ってる。教室だと一人でいることが多いから知らなかったけど、よく笑うんだな。
「えっと、ひ、人にも虫にも有効だから、なにかあったとき、ちょっとは役に立つかなって」
小さな炎では花には効果がないけど、虫には有効らしい。自衛隊が花に使えなかった火炎放射器を持ち歩いているのは、虫相手ならそれで戦えるからだ。おれみたいなただの高校生じゃさすがに手に入らないけど、花火なら季節外れでも探せばある。今回みたいなことも含めて、ちょっとは相手を怯ませられるだろうと思って、出かけるときは持ち歩いてる。
千鳥はおれの話を聞いて「なるほどね」と頷いた。
「意外だなー。菊池くんてそんな感じだったんだ」
そんな感じって、どんな感じだ。
と、ツッコミを入れるほどのコミュニケーション能力はない。
「じゃ、あたし帰るわ」
「えっ!?」
立ち上がった千鳥と目が合った。いや、おかしいのはおれのほうだ。めんどうな男から逃れたんだから、彼女がいつまでもここにいる理由はない。これじゃまるで、おれが千鳥と一緒にいたいみたいだろ……。
「んー? もっと話したかった?」
ほら、そう思われた。にやにやといたずらっ子のような目がおれを見下ろす。
「ち、違うよ、急だったから……」
「また明日学校でね、菊池くん」
そっぽを向くおれの顔を覗き込むようにしながら、千鳥は手を振った。笑ったときに見える八重歯が可愛いな、とか思いながら手を振り返して、いやなに考えてんだおれ、と心の中でツッコミを入れた。
――その日の帰り道はなんとなく、気分が良かった。
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