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次の日から、千鳥は学校でおれに話しかけるようになった。派手な千鳥と地味なおれ。住む世界のまるで違う二人がこうして会話するなんて、どっかの誰かが妄想でつくりあげた世界みたいだ。
たまにだけど、おれたちは学校以外でも会った。たいてい千鳥から連絡がきて、食料調達に行くなら一緒に行きたいと。彼女はおれが知らない場所も知っていたし、商品を物色している間は見張りもしてくれたからとても助かった。でもそういうふうに連絡がきたときは、千鳥は必ずと言っていいほど元気がない……というか、寂しそうな目をしていた。おれは気の利いたことを言えるわけでもなく、事情を聞いていいものかもわからず見つけた物を分けることしかできなかった。千鳥が渡した物を受け取ってくれて、八重歯を見せて笑うとほっとする。
コンビニを漁るだけ漁って、ビスケットを齧りながら夜の道を二人で歩いた。会ってすぐの寂しげな様子はどこへやらといった感じで、千鳥はけらけら笑いながら話す。
「あ、ここ」
ふと、彼女が一軒の店の前で足を止めた。真っ暗な美容室だ。
「あたしが通ってたとこなんだよね。店長さん、死んじゃってさ」
「あー……」
ここは残念だったね、か? いや、ご冥福なんちゃら?
「開くかな?」
「えっ!?」
なんと返そうか考えている間に千鳥はドアに手をかけていた。木製のドアは鍵がかかっていなくて、いとも簡単に開く。
「おお、開いた」
「ま、待って!」
ずんずんと中へ進む千鳥を追いかける。彼女は壁のスイッチを押し、ついた照明におおーと感嘆の声を漏らした。
「明るくしたら誰かに見られるんじゃ……」
「えー大丈夫だよ。誰か来たら知り合いの店だってしらばっくれたらいいじゃん。花火もあるんでしょー?」
あるけど……とごねるおれに、千鳥はにやっと笑って近づいてきた。
「びびってんの?」
顔が近い。
「べ、別にびびってないし」
千鳥に笑われながら二人で中を見て歩いた。自然を意識しているのか店内は全体的に木製の調度品で揃えてある。観葉植物なんかもあったりして、おしゃれな感じだ。「ちょーボタニカルでしょ」と千鳥が言った。安っぽい床屋に通っていたおれには一生縁がなさそうな場所。
バックヤードも見てみたけど、あんまり物は残ってなかった。
「ここも、いろんな人が持ってっちゃったんだろうね」
棚を眺めながら千鳥が言った。
そんな彼女の横顔を見て、ここに通っていた姿を想像する。鏡の前でおしゃれな美容師と喋りながら髪を切ってもらう千鳥。髪色を相談する千鳥。髪を梳く指に心地良さそうな顔をする千鳥。
……そういえば。
「髪、今は自分で染めてんの……?」
「ん? うん、そう。どうしても自分だとムラできちゃうけどねー」
毛先をいじりながら返答した千鳥は、突然「あっ!」と声を上げた。
「ねぇ! シャンプーしてよ!」
言うが早いか黒いレインコートのようなケープを肩にかけ、シャンプー台に座る。
「え、い、いや、おれ、ほかの人のシャンプーなんて……」
「なんとなくでいいって! 自分でやってるみたいにさ!」
渋々シャンプー台に向かうと、千鳥が満足そうに微笑んだ。まず椅子を倒す方法がわからなくて、次にシャワーはどうやって出すんだとかどれがシャンプーボトルだとか、二人であれこれ言いながらようやく準備ができた。「よろしくお願いしまーす」と千鳥が目を閉じる。おそるおそる金糸のような髪に指を通すと、さらりとした手触りに胸が高鳴った。そういえば、女の髪を触るなんて初めてだ。急に緊張する。
おれがシャワーで千鳥の髪を濡らしていると、くすぐったいと彼女が笑い出した。
「あ、あんまり動くなよ」
「だって……ふふ。ね、美容師さんみたいにやってよ」
「え? えーと……カユイトコロナイデスカ」
「なにそれ、棒読みなんだけど」
そう言いながらも千鳥は笑っている。
でも、その笑いが落ち着くと急に喋らなくなって、店内は静かになった。遠くで鳴っている警報が小さく聞こえる。美容師っぽくなにか話題を提供したほうがいいのかと思ったけど、なにも思いつかなかった。そういえばいつも会話の主導権は千鳥が握っている。
「あのね」
しばらくして、また千鳥が話し始めた。なんだか妙に落ち着いたというか……暗い声だ。
「冬休み中にさ、庭城さんが死んじゃったでしょ」
「え……あ、うん」
クラスメイトの庭城莉里。なんで今そいつの話を?
「あれ多分あたしのせい」
「千鳥……さんの?」
千鳥は「うん」と言うと、自分の犯した罪について語った。
庭城が生前の松葉について知りたがっていたこと。知り合いに聞いて、それを伝えたこと。電話越しだったけど、庭城は明らかにショックを受けていたこと。そのあとすぐに連絡が取れなくなって、冬休みが明ける頃には出席番号が名簿から消えていたこと。そして、死んだのだとわかったこと――。
そこまで話すと、千鳥はなにも言わなくなった。代わりに唇をぎゅっと噛み締めて、なにかを堪えるように肩を震わせた。シャワーで髪を洗い流す。水の音に混じって、少しだけ鼻をすするような音を聞いた気がした。
おれには上手いフォローはできないけど、でも、これだけは言える。
「千鳥さんの、せいじゃないよ。千鳥さんが教えなくても、庭城さんはきっとどこかで真実に辿り着いて、同じ結末を選んだ、と……思う」
タオルで髪を拭く。できるだけ優しく、したつもりだ。千鳥の顔はタオルの陰になってよく見えなかった。
「ん……ありがと」
椅子を起こすと、すっきりしました、美容師さん、と言って千鳥が振り向いた。少しだけ目を赤くして、でも、笑っていた。
シャンプーに続いて髪を乾かせと言われ、ドライヤーを渡される。これまた初めての経験で、できるだけ髪を引っ張らないようにしながら風を当てた。肩にかかる髪は細くて、さらさら流れるのがきれいだなと思った。ときどき熱い!と怒られながらもなんとか乾かし終えて、千鳥は久しぶりの美容室のシャンプーの香りに満足そうだった。
「ね、お礼に髪、切ってあげる!」
提案、というよりもはや決定事項みたいで、タオルやケープを片付けようとしていたら強引に鏡の前に座らせられた。
鏡に写るおれの姿を千鳥が見つめる。なんか恥ずかしい。見られるのがっていうより、こんな冴えない男であることが。視線に耐えられなくなって、思わず目を伏せた。
「前髪くらいならあたしにだって切れるからさ。菊池くん、結構伸びてるじゃん?」
「うん……でも、さ、やっぱいいよ」
鏡越しの千鳥がむっとする。
「いや、気持ちは嬉しいけど、でも、切っても変わらないっていうか……名前負け、してるし」
冴えない男がちょっと頑張ったところで変化は起きない。突然モテるとか、なんでも上手くいくとか、いいことが起きるとか、そういうことはないんだよ。
「いいじゃん、別に」
「……え?」
「ダイヤの原石って、言うじゃん。これから磨けばいいじゃん。急におっきな変化がなくたってさ、ちょっとずつでいいんだよ。菊池くんは充分いいとこあると思う」
前髪切るのがきっかけになるかもしんないよ!?と千鳥はハサミをシャキシャキと動かす。まあ失敗したらバリカンで坊主にしちゃお! そしたら嫌でも注目浴びるよね!と笑うから、それは勘弁してほしいと伝えた。
切った髪が目に入るといけないからと閉じるよう指示され、言われるがままにする。千鳥が動くと衣擦れの音がして、ふんわりとシャンプーと香水みたいな香りもした。
顔のすぐ近くでハサミが動いているのを感じる。千鳥はどんな表情をしているんだろう。閉じていろ、と言われたけどその顔を盗み見たくてそっと目を開ける。
――と、思っていたより彼女が近くて、真剣な眼差しとおれの視線がぶつかってしまった。
「わっ」
「あっ……ご、ごめ、つい」
千鳥は急に目が合ったことに驚いたみたいだったけど、おれはおれでまたドキドキしてしまって、顔が赤くなってるんじゃないかと鏡に写る自分を確認した。
そこには思ったとおり、少しだけ頬を赤くしたおれがいた。けど、さっきまでとちょっと違う。目が隠れるくらい長かった前髪はすっかり短くなって、表情がよくわかるようになっていた。……悪くない、かも。
「どうかな」
「あ、ありがとう。なんか、雰囲気変わった……気がする」
「ほんと!? 良かったー! 気に入ってもらえなかったらどうしようかと思った! 前髪だけでも印象違うっしょ!?」
なぜかおれよりも千鳥のほうが嬉しそうだ。
「あたしね、美容系の仕事に就きたいんだよね。だから変わったのを喜んでもらえると嬉しい!」
ま、将来があるかなんてわかんないけどさ、と付け加えて、彼女は笑った。
「……千鳥さんは、そのために生きてんの……?」
「そのために?」
「あ、いや、すごいなと、思って。おれは、将来のことなんて……なんも、考えてないから。今を生きるだけで精一杯っていうか」
千鳥が無言でおれを見る。ちょっと重い話題になっちまったか……。ほんと、なんていうか、人と関わるのが下手だよな――。
「……あははっ!」
「な、なに?」
急に笑い出した千鳥の声が店内に響く。おかしなことなんて、言ってないと思うけど……。
「おーげさ! 別にそのために生きてるわけじゃないって! たださ、そうしたいなーとかやりたいなーとか、思ってるだけ」
――そういうこと考えてないと、逆に、生きてらんない。
笑顔が少し、寂しそうに見えた。
「千鳥……」
「あ、それ!」
「え?」
「あたしのこと、下の名前で呼んでよ。"千鳥さん"って、なんか他人行儀っぽくて嫌だからさ」
「う、うん……」
そろそろ帰ろっか!と千鳥が床に落ちた髪の毛を箒で集める。
「今日はありがと。楽しかったよ! 大也」
「おれも、楽しかった……えと、す、鈴、香……」
ちど……鈴香は八重歯を見せて笑った。この日一番可愛い笑顔かも、なんて思った。
美容室を出て、しばらく歩いたところで鈴香と別れた。鈴香を楽しませてあげられて良かった。なんだかおれも楽しい。彼女といると、そう感じる。きっとこれが、友だちってやつなんだな。
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