四 姫彼岸花の孤独

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 出かける前に鏡を見る。前なら考えられなかったことだ。鈴香(すずか)に切ってもらった前髪を少し直して、今日も夜の街に出た。  あれからもおれたちはときどき外で会う。コンビニ行って、なんか食べながらぶらぶら歩いて、テキトーに別れる。鈴香と過ごす時間は楽しくて、たまにドキドキさせられて、自分じゃ手の届かない所をくすぐられてる感じがする。会うのは相変わらず向こうから連絡が来たときで、つい、メッセージがないか確認してしまう。  ……うん、今日はなし。自分から誘う勇気はない。ていうか、一緒に窃盗しようぜ!って誘うのはおかしいしな。  まあ、一人でも寂しいわけじゃない。ただちょっと、いつもより、二人でいるときより、二月の突き刺すような冷たい空気に痛みを感じるだけだ。  それでも、最近は調子がいいからそんなのもへっちゃらだ。ちょっと高いビーフジャーキーやカップラーメンが大量に残ってる店を見つけたり、たまたま店主がいなくなったばっかのコンビニ見つけて弁当やパンにありつけた。もちろん危険がないわけじゃない。自衛隊の管理下にある場所に入っちまった日があって、めちゃくちゃ追いかけられた。あいつら銃なんて向けてきてさ、ほんとに死ぬかと思った。そういや虫に出くわしたこともあったっけ。言っても羽音を聞いたくらいなんだけど。すぐそばをバイクが走るようなうるっさい音がしてさ、なにかと思ったら人ぐらいでかいのが飛んでった。ちょうど物色が終わって店から出ようとしてたとこだったからすぐに中に隠れたら、気づかずにどっかに行った。そのあと何人かの叫び声なんかが聞こえて。多分自衛隊と交戦したんだな。あんなのに捕まったら人間なんて一瞬で死ぬと思う。まあ羽音がでかすぎてすぐに気づくけど。この前みたいに建物の中に逃げられればなんとかなるだろ。  今日も来たことのない場所を開拓する。ちょっと花に近いから、普通の奴らは警戒してあんまり来ないんじゃないかと見てる。    できるだけ狭い道を通って向かう。そのほうがなにかあったときに逃げやすいから。花に近づけば近づくほど甘い香りが漂ってきて、これがニュースで言ってたやつかとわかった。空は快晴で星が出ている。明かりがついている場所が減ったから、夜空がすごくきれいだ。目的のコンビニに着くと入口から花びらの先端っぽいものが見えて、思わずおぉーって声が出た。  いつものように、まずは食料品の棚を見る。品揃えが良くて、ほとんど人が入った形跡がなかった。レジからビニール袋をもらって、期限が長そうな物を入れていく。お菓子もたんまり。甘いものが好きだって鈴香(すずか)が言ってたっけ。分けてやったら喜んでくれるかな。八重歯を見せて笑う彼女の姿が浮かんで、おれまで口角が上がる。    あっという間に袋はいっぱいになった。もっと持ち帰りたいところだけど、あんまり多すぎると重くて帰りがきついからそこは我慢。なにかあったときに逃げらんなくなるしな。誰もいないだろうけど、と思いつつ辺りを確認してから店を出た。  月明かりを背に歩く。なんか食べながら帰ろうか。持っているビニール袋のほうへ視線をやると、自分の影が見えた。手にした袋の影がゆらゆら揺れている。そのすぐ近くに、もう一つの、影――。ジジジ、なのか、ギギギ、なのか、なにかの音が聞こえて嫌な予感がした。距離をとるようにしながら振り返ると、案の定それは人と同じくらいの大きさをした人ではないもので、瞬間、背筋に悪寒が走った。  ちょうど蠅が地面にとまったような格好で、そいつはまたジジ……と声のようなものを出した。びびってる場合じゃない! おれは細い路地を駆けた。良かった。足が動く。こういうとき、動けなかったらそれこそ死んだも同然だ。 「だ、誰か! 助けて! 虫が出た!!」  叫んでみたけど反応はない。今が軍の出番じゃないのかよ。虫はというと、まるで四足歩行の動物みたいに足を使って追いかけてくる。なんで飛ばないんだ? 羽音が聞こえればすぐに気づけたのに……! 「くそっ」  ポケットから出したネズミ花火に素早く点火して投げつける。やっぱり火に弱いみたいで、少しだけ虫の動きが止まった。それでおれはようやくこいつが飛ばない理由を知ったんだ。  羽が、ない――根本の辺りが黒ずんでぼろぼろになっている。きっとどこかで人間と交戦して、羽を燃やされたんだ。  虫がたじろいでいる間にまた走る。でもおれが逃げると虫も花火を振り払って追いかけてきた。目の前に餌があるんだ。簡単には諦めてくれないってことか。右に左に曲がりながら虫を撒くために走るけど、足を器用に使ってついてきやがる。飛ぶスピードが速いとは聞いてたけど、走るのもなかなかだ。  虫との距離はじりじりと詰まっていく。ときどき花火を投げつけたけど、もう次で最後の一つ。    ……やっちまった。  目の前には壁。初めての場所だからどこかで道を間違えたらしい。振り返ると……ジィジィとおれを嘲笑うみたいに虫が近づいてきていた。ところどころ焦げたように体が黒くなってるけど、こっちはこっちでもう息が上がっている。 「誰か! 虫だ!」  おれが叫んだのと同時に虫が飛びかかってきた。  その刹那、今までに味わったことのないような痛みが身体を襲う。見ると、左足に虫が喰らいついていた。右足で奴を蹴飛ばしたけど、痛みで立っていられず尻もちをついた。ズボンごと肉が食いちぎられて、ぼたぼたと血が出ている。 「う……くそ……」  ふと、鈴香の姿が脳裏を過ぎる。だめだ。こんなときに好きな人を思い浮かべるなんて、死ぬフラグだ。まだ、死にたくない。おれは生きたい。クソみたいな世界でも、楽しいと思えることがある。会いたい人がいる。    ……ん? おれ、さっき()()()()って言った……? そっか、鈴香のことが好きになってたんだ。  あー……やばい、ちょっとぼうっとする。虫の鳴き声みたいなのがまだ聞こえるな。しつこい。  こっちに這い寄ってくる姿が見えた。最後のネズミ花火に火を点ける。これで死ななかったら、もうおれの負けだ。  大口を開けて飛びかかってくるから、そこに花火を持った右手を突っ込んだ。ネバネバした涎みたいなのが腕に絡みついて気持ち悪いけど、できるだけ奥まで入れる。突っ込んだ腕をそのまま噛まれて血が噴き出した。口から引き出そうにも顎の力が強くて、変な音がするだけだった。やっと離れたと思ったときには右腕の肘から下がなくなっていて、もうどこにも力が入らなかった。重力に任せて倒れ、歪む視界で虫を見た。腹の中に花火を突っ込まれた虫はバタバタ悶えて聞いたこともない大声で鳴いていた。さすがにこれを聞いたら誰か来るかもな。    そのうちに虫は動かなくなった。腹が焼けて死んだんだな。役に立ったな、()()()。良かった。鈴香に会いたい。好きだって気づくの、ちょっと遅かったかも。ああ……腕も足も感覚がない。死ぬな、これ。もっと生きたかったな。きっとおれの人生は、これからだったのに。  ……さよなら、鈴香。
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