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どんなに幸せでも不幸せでも、時は流れる。わたしが悲しみの底に落ちて、それから嫉妬に心を燃やすまでの間に桃は完全に学校に来なくなった。ただ名簿に出席番号だけを残した状態で。またどこかで花が散ったと聞いても、クラスメイトが一人死んでも、心は動かなかった。桃を奪った男を憎んで、わたしを捨てた桃を憎んで。それだけに支配されていた。
でもそれは彼女が学校を休んでいても、生きているとわかっていたからなのかもしれない。生きているからこそ、そういった感情を向けられるのだ。
年が明けた頃、また国の一番偉い人が変わった。新しい一年の始まりを祝うムードはどこにもなくて、朝からそのニュースだけが淡々と報じられた。もう何度目かわからない交代だ。そんなニュース、どうだっていいのになぁとリビングに響く報道を一人、流し見る。どれだけ偉い人が変わったって状況は好転しない。最初こそ国を守るためにと意気込んで対策を打ち出していたが次々に死んだり行方不明になったし、新しい人もすぐにそうなるだろう。
政策は次第に過激になってきている。花による侵略、虫による蹂躙。それを食い止めるために国は躍起になっている。愛国心、と言えば聞こえはいいだろうが今や民主政治と呼べる国の姿は残っていない。軍隊が指揮を取り、一般市民にはなんの保障もないのだ。生活するための機能が生きているからなんとかなっているが、そのうちにそれもままならない状況になるかもしれない。
――いい加減うっとうしくなったニュースを消す。冬休みなのに楽しいことは一つもない。日課のようにクラス名簿を確認した。たいした変化はないだろう、と、思っていた。
「桃……?」
言葉がぽろりと零れた。38番が名簿から消えている。毎日焦がれては苦しみ、憎しみまで抱いた彼女の番号。
警報が鳴り始めたが構わずに外に出た。上着すら身に付けず走る。最寄駅に向かって、無人で動くトラムに飛び乗って、一駅で降りれば桃の家はすぐだ。
呼吸も整えずインターホンを押し、応答を待ちきれずに玄関のドアを叩く。少し驚いたように中から顔を出したのは桃の母親だった。
「あの! 桃は!?」
自分がどんな顔をしているかはわからなかったが、きっとものすごい形相だったのだろう。桃の母は少しの間、時間が止まったように硬直していた。それから弱々しく微笑むと、「莉里ちゃん、久しぶり。どうぞ」とわたしを中へ招き入れてくれた。
松葉家はしんと静まり返っていて、嗅ぎ慣れない香りが漂っている。家の中があまりにも静かなのと桃の母がどこか暗い空気をまとっていて、最初の勢いはどこへやら、わたしも借りてきた猫のようにただ後ろをついて歩いた。
「桃は、ここ……」
そう言って通された部屋に、しかし桃の姿はない。
「あの……」
訝しむと、桃の母は視線を下のほうへと向けた。
陽当たりの良い客間。そこに小さな机があり、三つの写真立てと、花やお菓子が置かれていた。
「……うちには、仏壇がないから」
「仏壇……?」
そんなもの、うちにもない。というか、今どきある家のほうが少ないと思う。
なにか知ってはいけないことを知ろうとしているのではないか。そんな嫌な予感が走った。
「桃、莉里ちゃんが来てくれたよ」
そこに桃はいないのに、桃の母は彼女に話しかけるように手を動かす。蝋燭に小さな火が灯って、促されるままに机の前に座った。
「あの、桃は……」
わたしの問いかけに悲しげな表情が返ってくる。
「一ヶ月前……十二月十一日に、亡くなったの」
亡くなった。
頭の中をその言葉がぐるぐると巡る。写真の桃は可愛らしい笑顔を見せていて、わたしの大好きだった彼女そのものだった。この笑顔を見ることは、もう叶わないということだ。これから先、一生。
「どうして、ですか」
思った以上に声が震えている。
「……あの子、自衛隊の仮設基地に行っていたみたいなの。花が咲いてから使っていない体育館があるでしょう。あそこに……」
「そこでなにが……?」
母親が知っていたのは、桃が仮設基地にいたときに付近に虫が現れて交戦に巻き込まれたこと、そこで亡くなった人たちの遺体はすべて虫に食われてしまい、身体は残っていないことだった。なんとか生き残った隊員からの報告で桃と……一緒にいたお兄さんも亡くなったことを知ったらしい。
一度に二人の子どもを失った桃の母は話すだけでも辛そうだった。自分のことで精一杯だったが、よくよく見れば頬がこけるほどやつれていて、目も落ち窪んでいる。
視線を三つの写真立てへ向ける。桃の写真の隣に、若い男の人の写真。これが桃のお兄さん。もう一つは……なんだろう。そもそも人なのかもわからない。全体的に黒っぽくてやけに画質の荒い写真だ。
目頭を押さえる桃の母に申し訳なさを感じながら、再び尋ねる。
「すみません、この写真は……?」
「……ああ、それね……」
静寂。
噤んだ口から言葉が発されるまで、わたしは辛抱強く待った。
「……あの子ね、妊娠していたみたいなの」
わたしも知らなかったんだけど、遺留品の中に桃のバッグがあって……と話が続く。ほとんど耳に入ってこない。妊娠? 桃が? 誰の……? あの、ホテル街にいたっていう男の人……?
視界が揺らぐ。めまいがする。桃のお腹に赤ちゃんがいたなんて――それは、わたしと彼女ではどんなに願っても叶わないもの。
「……莉里ちゃん?」
呼びかけにはっとする。倒れてはいないけれど、放心してしまっていたらしい。
「お線香、良かったら上げてくれるかな」
なんとかつくられた微笑みに応え、線香に火をつける。手を合わせるとほのかに甘みのある香りが鼻腔をくすぐった。家の中に入ったときに感じた匂いだ。きっと何度も何度も、お線香を上げているのだろう。
……桃、本当にいなくなってしまったの……? 思考が追いつかない。どうして、こんなことになってしまったんだろう。桃に振られたわたしにはどうすることもできなかったのかもしれない。けど……それでも、大好きな人になにもしてあげられなかったことが悔しくてたまらない。
ぼやける視界で、もう一度黒っぽい写真を見る。これはエコー写真というもので、白い小さな点が赤ちゃんなのだと教えてもらった。今どき紙でエコーを残すなんて、あの子らしい……と桃の母は少しだけ目を細めた。
桃は思い出を形として残すのが好きで、毎日数えきれないほどメッセージをやりとりしているのにたくさん手紙もくれた。親世代が学生時代に使っていたようなノートや教科書といったものを持っている人は少ない。それこそわたしたちより上の世代か、好きで所有している人くらい。すべて配布されたタブレットでこと足りるからだ。桃はどこで見つけてくるのか、可愛らしいデザインの便箋をたくさん持っていた。書いてあるのはその日にあったこととかわたしへの気持ちとかさまざまで、どうしてわざわざ紙に書くのか聞いたら、みんなが使う電子信号みたいなものじゃなくて自分の手を使って書いたものを渡したいからだと言っていた。紙には想いの重みがあるのだと。
そう話していた桃と彼女を慈しむ母親の顔がやけにそっくりで、見ているのが辛かった。
♦︎♦︎♦︎
突然お邪魔してすみませんでしたと玄関先で頭を下げるわたしに、桃の母はいいのいいのと手を振った。こんな状況下だから、亡くなったことは連絡が取れる身内にしか伝えておらず、学校へは最近ようやく連絡を入れる気持ちになったらしい。桃と仲の良かった莉里ちゃんが来てくれて嬉しかったと向けられる笑顔に、胸がちくりと痛む。わたしはもうずいぶん前から、桃に求められていなかったけれど――。もちろんそんなことを言うわけもなく、松葉家をあとにする。
ここに着いたときと比べると、頭はずいぶんと冷静になっていた。嫉妬の炎に焼かれていた心も急速に鎮火して、今はわずかな煙を吐く程度。
千鳥鈴香と話したい。彼女なら生前の桃に――わたしの知らない桃に繋がるなにかを知っているかもしれない。
千鳥さんの連絡先は知らない。でも冬休みが明けるまで待っていられない。わたしの足は自宅ではなく、千鳥さんが桃を見たというホテル街へと向かっていた。
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