一 白百合の変転

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 そこに千鳥(ちどり)さんが現れるのか?と聞かれたらわからない。でもあんな事実を知って、じっとしてもいられなかった。  正直言って、ホテル街の辺りは危険だ。たびたび虫の出現情報が上がって交戦も多く、建物も半分壊れていたり倒壊するんじゃないかと思うような場所もある。それでも迷わず来たのは(もも)について知りたかったから。振られても憎んでも、やっぱり彼女が好きだからだ。  ホテル街には初めて訪れた。小さな区画にさまざまな趣向のホテルが並ぶ。通りを歩いてみたが静かなものだ。きっと以前だったらもっと人がいて、来るのは躊躇っただろう。物音がするたびにどこかに虫がいるんじゃないかと身体が強張った。直接見たことはないが、話によると人間くらい大きい(はえ)のような姿らしい。それが人を殺し、食べるというのだからおそろしい。危うく想像しそうになってかぶりを振る。  時折ホテルから出てくる人を見かけたが千鳥さんではない。時間が経つにつれて、感情に任せてこんな所に来てしまった自分を馬鹿らしいと思った。いくら彼女に()()()()があるとはいえ、ここに来れば会えるというわけじゃあないのに。 「帰ろうかな……」 「えーっもう帰るのー?」  まるで呟きに返事をされたように後ろから女性の声がした。千鳥さんだ。振り返ると、彼女は男性と腕を組んでホテルから出てきたところだった。真実味を帯びる噂。でも今はそれよりも――。 「あれ、庭城(にわしろ)さん」  話しかけるよりも早く、千鳥さんがわたしに気づいた。どうしてこんな所にいるのかと不思議そうな顔をしている。 「あのっ! どうしても聞きたいことがあって!」  よほど思い詰めた表情をしていたのか、千鳥さんは少しだけ後ずさりした。共にいた男性はそのすきに彼女の腕から逃れ、軽く手を振りながら去ってゆく。ちょっと待ってよ!と叫ぶ千鳥さんを引き止めるようにぐいと近づくと、彼女は男性を追いかけようとするのをやめてわたしに向き直った。 「……聞きたいことって?」  置いて行かれたからか、千鳥さんはため息をつき不機嫌そうな声を出す。 「あの……前にさ、桃を見たって言ってたよね。そのときのこと、聞きたくて」 「そのためにこんなとこ来たの?」 「うん……誰といたのか、知りたくて」 「庭城さんがそんなこと知ってどうすんの?」  当たり前の疑問だ。()()の恋愛について本人ではなく他人に、それも連絡先も知らない人に、会えるかもわからない場所で待ち伏せして聞き出そうとしているのだから。  ――でも。わたしにとって桃は友人じゃない。もっともっと大切な存在。桃にとってのわたしはそうじゃないかもしれないけれど。ひとりよがりだとわかっているけれど。 「……桃の出席番号が、なくなって、それで」  言葉が出てこなくなった。代わりにぼろぼろぼろぼろ涙が溢れる。桃が死んだ事実を、口にしたくない。わかっているけど認めたくなくて、でも言葉にしたら認めたことになってしまう気がして。どんなに多くの人が死んでも、クラスメイトが死んでも、なんとも思わないくらい麻痺していたのに。やっぱり桃だけは、違う。  千鳥さんは名簿から番号がなくなったこととわたしの様子からなにかを察したようで、桃の相手を知る人がいないか探してみると言ってくれた。そのうえ、涙が止まらないわたしをホテル街に残して帰るのが忍びなかったのか、落ち着くまでそばにいてくれた。 「庭城さんさ、松葉さんのこと好きなんでしょ」 『好きだった』と過去形にしないところに千鳥さんの気遣いを感じる。が、答えにくい話題だった。わたしと桃は恋人同士であることを誰にも話していなかった。同性愛なんて珍しいものではないけれど、それでも許容できないと言う人は一定数いる。理解できないとか気持ち悪いとか。わたしがとやかく言われるのは構わない。けれど、桃にそういう言葉が浴びせられたらと思うと気が気でなくて、わたしたちは関係を二人だけの秘密にした。  でも、答えないのはそれがある種の答えになってしまう。無言のわたしに対して千鳥さんは「あたしはいいと思うよ」と言った。 「庭城さんがホテル街(こんなとこ)で松葉さんのこと聞いてきたときはびっくりしたけどさ、そんだけ人を想えるってすごいと思うし。必要とされてる松葉さんが羨ましいなーって」  そう話す千鳥さんの横顔は、どこか寂しげだった。    わたしたちは連絡先を交換し、ホテル街を出た所で別れた。その日は衝撃的なことが続いて精神的な疲労が大きかったからか、帰宅してすぐベッドに転がり込んだ。  千鳥さんから連絡があったのはその二日後。深夜に近い時刻だった。モバイルから聞こえる千鳥さんの「もしもし」という声はなんだか暗い。 「わかったよ、松葉さんのこと」  落ち着いて聞いてね、という前置きをしてから彼女は続けた。 「松葉さん、輪姦(まわ)されてたっぽい」  ――身体が串刺しにされたような気がした。全身に力が入って硬直しているのがわかる。手の平にじっとりと嫌な汗が滲んだ。  桃のことを知っていたのは軍の人たちだったらしい。千鳥さんは男性の知り合いが多く、数人に尋ねたらすぐに辿り着いたそうだ。  話は桃のお兄さんが休みを取って帰省した土日まで遡る。自衛隊の仮設基地となっている体育館に、桃はお兄さんに連れられてやって来た。千鳥さんが話を聞いたのは、そのときそこにいた隊員の一人だ。  新人隊員が高校生の妹を連れてきたとあって、桃はずいぶんとちやほやされたらしい。しかし、初めこそ可愛らしい客人として持て囃されたが、徐々に男たちの桃を見る目が変わっていく。必要以上に身体に触れ、服を脱がせ、果ては――。  しかし最初からそうなることは決まっていたのだという。お兄さんが帰省したことも、桃を仮設基地へ連れて行ったことも。桃が何人もの男たちの間を行ったり来たりさせられている間、お兄さんは先輩隊員から「よくやったなぁ」と賛辞を浴びていたらしい。  その土日以降も桃はたびたび呼び出され、欲望のはけ口になっていた。千鳥さんがホテル街で見かけたのは、桃をそういうふうに利用していた一人。  仮設基地にいたのは、そういう理由だったんだ。その男たちはきっと大半が桃と同じ日に死んで、虫に食われた。怒りをぶつけようにも矛先は定まらない。ふつふつと煮えたぎりそうになる胸を、冷静になれと鎮めるもう一人の自分がいる。深くゆっくりと呼吸をすると、そこでふと、疑問が浮かんだ。 「千鳥さんが見た相手は、恋人みたいだったって言ってたよね……? 桃は嫌がってなかったの……?」  うん、それがね……と千鳥さんの声が沈む。 「松葉さんも、それで良かったみたい」  ()()()()()()()? 男たちの慰み者として扱われ、好きなように使われて、それで良かった? それが桃の望んだこと……? 「それってどういう」 「松葉さん、死ぬのがこわいっていつも言ってたみたい」  ――肌を重ねていると安心するって。気持ちいいとなにもかも忘れられるって。  ああ、そうか。  唐突に理解する。  桃には、だめだったんだ。わたし一人では。桃を安心させてあげられなかったんだ。だから。そうか。そっか。 「ありがとう、千鳥さん」 「庭城さん、大丈夫?」 「うん。本当に、ありがとう」  千鳥さんとの通話を終えると、深夜だというのにまたどこかで警報が鳴っていた。闇夜に響く間延びした音。目を閉じれば遠くで銃声のようなものが聞こえ、同時に、頬が濡れていくのがわかった。  わたしは桃がいればそれで良かったけれど、桃は違ったんだね。気づいてあげられなくてごめん。恋人だったのに。いつから、気持ちがすれ違っていたんだろうね。  静かに立ち上がり、机の上に置かれた小箱を開ける。桃からもらった手紙はすべてここにしまってある。やるべきことはとっくに決まっているんだ。わたしはするすると手間取ることなく準備を進めた。  ♦︎♦︎♦︎  浴槽に身体を沈めれば温かな湯に包まれる。ほっとする瞬間だ。きっと人類はこの先どれだけ進化してもお風呂には入り続けるだろう――絶滅しなければの話だけれど。  桃からもらった手紙を浴槽の中で眺めた。当たり前だけど紙は濡れるしインクが滲んでどんどん文字が読めなくなっていく。桃からもらった「好き」も「愛してる」もぼやけて、溶けて、消えてゆく。  桃にとってわたしはどんな存在だったんだろう。  わたしには桃しかいなかった。一番じゃなくてもそばにいたかった。  手首に剃刀をあてがうと、そこだけがひんやりした。本当にこれで死ねるのかな。でも、両親はもう寝ているし、とにかくたくさん薬も飲んだし、多分、上手くいく。  桃のいない世界に用なんてないよ。どうせみんなすぐに死んじゃうし。ああ……少し眠くなってきた。  できるだけ深く、抉るように刃を食い込ませる。二度と目覚めることのないように。  流れた血液が湯船の中で帯のように広がる。微睡みながらどこかで聞いた話を思い出した。赤ちゃんはお風呂が大好きだって話。産まれる前――羊水に満たされたお腹の中はまるでお風呂のように温かくて、だから赤ちゃんはお風呂に入るとお腹の中を思い出して気持ちいいんだって……。  桃は妊娠がわかってどんな気持ちだったのかな。嬉しかったのかな。父親がわからなくても、赤ちゃんは可愛いのかな。産みたかったのかな。どんなに頑張ってもわたしでは与えることのできない喜びだ。    種が蒔かれ、芽吹き、散る。  みんな、生き延びようと必死に子孫を残す。  でもわたしはもう生きる必要なんてない。桃のいない、世界に……意味なんて、ない。  こんな世界なら、死んだほうがいい――。
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