二 白椿の落花

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 突如として咲いた巨大な花は、たった五ヶ月で世界を侵略した。こわくて実際に見に行ったことなんてないけれど、上空から撮影した写真や映像からジャスミンに似ていると言われている。白く大きな花びらは一枚で長さが二キロもあるらしい。花全体で言えば品川区と同じくらいなんだとか――地理に弱いわたしにはちょっとわかりにくいな、なんて思った。  建物に影を落とすほどに大きくて、花の真下はもう陽が当たることはない。地面も隆起していて、付近はとても歩けたものじゃないそうだ。  でもそれ以前に危険なのが、花に棲む虫だ。彼らはイソギンチャクとクマノミのように共生している。花は虫の棲家となり、虫は花に近づく人間(てき)を排除する。蠅のような姿と言われている虫たちは飛ぶ速度が速く、一匹を狙って攻撃を与えるのは至難の業だそうだ。そのスピードもさることながら、もっと厄介なのは長い足と強靭な顎。空から簡単に人間を捕まえることができるし、齧りつかれたら部位によっては即死してしまう。  虫は死んだ人を食べ、卵を産んで増えるらしい。蛆虫のような姿をした幼体の目撃情報からわかったようで、産まれたばかりの幼体も人を食べる。だから死体は回収しないと虫たちにすっかり食べられて跡形もなく消えてしまう。  そんな手強い虫たちの攻撃をくぐり抜けて花びらに着陸した部隊もあったらしい。報告によると花は果物のような甘い香りを放っていて、人間にはどうやらとても刺激が強いんだとか。めまいがするほどの香りで何人も卒倒。そのまま花の中心部である雌蕊(めしべ)の辺りに落ちてしまった人たちは帰って来られなくなってしまったそうだ。報告はそこで終わっていて――そのあと部隊が全滅したためとニュースでは報じられていた――おそらく雌蕊のベタベタ――柱頭という部分に捕らえられてしまったのだろう、と植物の専門家が言っていた。どんなに大きくても基本的にはわたしたちが知る植物と同じ……だからなにか対抗策があるはずだと言われているけれど、今のところ有効打はないみたい。  そして花は散る前に種を蒔き、新たな命が芽吹き、その花もまた散っていく。そうしないと生き物は繁栄しない。命の連鎖は途絶えてしまう。花も虫も人も同じ。でも、人間だけは感情を持っている。辛さや悲しさを感じる。苦しみが伴う行為を知っているのなら、どうして人間はそんなことをするんだろう。  ♦︎♦︎♦︎  ――十月に入っても暑い日が続いていた。巨大な花と人間の抗争に前向きな進展はない。花は相変わらず散っては世界中に種をばらまいていたし、人間は虫と戦い、怯えながら生活している。クラスメイトの(もも)ちゃんが頻繁に休むようになって莉里(りり)ちゃんが寂しそうにしていたけれど、周りの変化はそれくらいでわたしと(じゅん)くんの間にも変わったことはなかった。……というより、変わらないようにしていた。  純くんはやっぱり()に進みたいのかなと思ったりもするけれど、わたしにその気がないのを察しているのか無理矢理になにかをしようとはしない。気持ちを尊重してくれているんだと思うと、優しくて気遣い屋な彼がやっぱり大好きだなって認識する。  今日はそんな純くんと午後からデートで、さっきからずっとなにを着ていこうか悩んで決められないでいた。といっても大型ショッピングモールやカラオケなどの娯楽施設はほとんどが閉店しているから、近くの公園で会うくらい。みんなはデートってどんな所に行っているんだろう。  鏡の前でワンピースをあてがっていると、階下でインターホンが鳴り響いた。来客があるとは聞いていないけれど、お客さんと言えばお母さんに会いに来る人が多い。お母さんは出かけているんだけどな……。  訪ねて来たのはやっぱりお母さんの知り合いで、会ったことのない男の人だった。インターホン越しに母はいないと伝えたけれど、渡したいものがあると言うので代わりに受け取ることになった。正直、あまりお母さんの()()には会いたくない。愛想良くして心を許していると思われて、「この人が今日からお父さんになるのよ」なんて言われた日にはどんな顔をしたらいいかわからないから。  ドアを開けると男の人は挨拶もそこそこに小さな紙袋を差し出した。高校生のわたしでも知ってる有名なブランド――お母さんはこうやって、ときどきプレゼントをもらっている。このご時世にどこでどうやって用意しているのかわからないけれど。  じゃあ渡しておきますので、とわたしが言っても帰る気配がない。どうやって切り上げたらいいんだろう……。こういうとき、すごく困る。逡巡していると「(ゆき)ちゃん、お母さんにそっくりだね」と男の人が言った。だぶついたティーシャツにショートパンツの部屋着姿のわたしを上から下まで値踏みするように見ている。なんだか嫌な視線だなと思っているうちに身体を家の中に押し込まれ、シューズボックスに背中をぶつけた挙げ句に尻もちをついた。お母さんが飾っていた陶器の置物がわたしのすぐ横で割れる音と、ドアの鍵がかけられた音がしたのはほとんど同時だったと思う。  身体の痛みに顔を歪めている間に男の人がわたしを押し倒すように覆い被さってくる。 「やっぱり若い子の身体って違うね。ハリがあるっていうかさ」  首元に吐息がかかって肌が粟立つ。押し退けたいけれど、びくともしない。大きな手が服の上からいろんなところを無遠慮に触る。 「や、やめてください! お母さんに言いますよ!」  わたしの声なんて聞こえないみたいに胸元に顔を埋められ、ついにはティーシャツの中に手を入れられた。気持ち悪さと恥ずかしさと、どうしてこんなことをするんだろうという疑問と。いろんな感情が渦巻いて涙が溢れる。このままこの人に好きにされてしまうんだろうか……。抵抗できず、ぼやけていく視界の端に割れてしまった陶器の破片が映り込む。  迷いなんてものはなかった。早くこの人を引き剥がしたくて、その一心で手を伸ばし、そして――。  男の悲鳴が玄関に響き渡った。
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