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男は右の二の腕を左手で押さえて痛みに悶えている。そのすきに靴を履いて家から飛び出した。後ろから怒号のようなものが聞こえたけれど、構わずに走った。今捕まったら、それこそなにをされるかわからない。
こわかった。だけど、逃げなきゃという思いが身体を動かした。男の視線や息づかいや手がまとわりついているような気がして、それを振り切るように走る。お母さんはなにが楽しいんだろう。あんなの、気持ち悪いだけだ。
向かったのは純くんの家だった。彼以外に、頼れる人は思いつかない。なによりこの不安を純くんに取り払ってほしかった。
インターホンを押すと、約束の時間も場所も無視して部屋着姿でやって来たわたしをやや驚いた様子の純くんが出迎えた。顔を見るなりぐじぐじと泣き出してしまったものだから彼はひどく焦って、とにかく中に入りなよと優しく手を引いてくれた。
純くんの部屋は、純くんのいい匂いがした。出してくれた冷たいレモネードは甘味が強くて、なんだかほっとする。
「……ありがとう」
「……なにかあったの?」
ベッドを背もたれのようにして座るわたしの隣に、純くんが座る。思い出すと恐怖が込み上げて、最初の一言がなかなか出てこない。純くんはわたしが話し始めるのをじっと待っていた。静かな室内に、カランと氷の音が響く。
「あのね」
――家に男がやって来てからの顛末を純くんに話した。彼は途中で言葉に詰まるわたしの手を握って、静かに相槌を打ちながら聞いてくれていた。
「……そっか、こわかったね」
空いているほうの手がゆっくりとわたしの頭を撫でる。手の平や指先が髪の毛の上を滑るように動くたびに、手の大きさや重みが伝わって不思議と心地良い。自然と目が合って、キスをして、抱き寄せられた。純くんの身体はわたしをすっぽりと覆ってしまう。男の人って大きいんだな。純くんの匂いがする。石けんみたいな匂い。こんなにくっつくのは初めてで、今までにないくらいドキドキした。心臓の音が聞こえちゃうんじゃないかなって思うくらい。
でも、ふと気づくと本当にドキドキが聞こえていて。それが純くんの心音だと気づくのに時間はかからなかった。彼も緊張しているんだとわかったらそんな純くんが急に可愛らしく思えて、つい顔を上げてその表情を見たくなった。
「純くん……?」
きっと赤面しているんだろうと好奇心で見たその顔は、わたしが思っていたものとは違っていた。恥ずかしいとか照れているとか、そういう表情ではなくて、もちろん緊張もしているけれど今までに見たことのない顔。熱っぽくわたしを見つめる瞳は奥のほうでぎらぎらと光って、なにかに囚われたような、恐怖に近いものを感じさせた。
純くんの手が背中や腰を撫でる。今までと違う手つき。頬や耳に落とされる口づけは熱くて、なかなかわたしの肌から離れようとしない。
「ごめん、もう我慢できない」
言うが早いか目の前に大きな影ができて、次の瞬間には柔らかなカーペットに背がついていた。
純くんはもう、わたしの言葉なんて聞いていなかった。いつもの彼とは違う、強引で必死な純くん。「待って」も「やめて」も彼の唇にふさがれて、零れ落ちた悲痛な想いにかき消される。
――したくてしたくてしょうがなかった。どんなふうに触られたの? 雪は興味なさそうだったから。嫉妬でおかしくなりそう。
乱暴に不器用に服を剥いで、それでもできる限り優しくキスをして、たどたどしい手が身体の上を這う。わたしはこんなの望んでいない。心が繋がっていればそれでいい。こんなの、ただ寂しさや欲望で空いた穴を埋めるだけの行為だ。
でも、体温が上がっていくのがわかる。気持ちとは裏腹に、純くんに触れられたところがもっともっととその手を求めているみたいだった。
――やだやだやだ! 嫌……いや、だ……痛い……。
――それだけ?
――嫌だぁ……。
――ねえ、それだけなの?
――……気持ちいい……。
――うん。
――もっとぉ……。
わたしもおんなじなのかな、お母さんと。
知ってしまったら、知らなかった頃には戻れない。身体の奥深くで純くんと繋がって、そんなの上辺だけだと思っていたのに、離れるのが惜しい。汗ばんだ熱い身体に安堵する。懸命な彼がいじらしい。少しでも長くこうしていたいと切望してしまう。互いが互いを求め、何度も唇を重ね、わたしたちは体温を、快楽を、知ってゆく――。
♦︎♦︎♦︎
年が明けると、またクラスメイトが減った。世間ではどうして他国は援助してくれないのだろうとか、全世界に種を蒔いて増殖しているためほかの国も手が回らないのではないかとか、毎日のように意見が交わされている。人間同士の争いはちっともニュースにならない。誰かが死んだとか何人が怪我をしたとか、巨大な花の前ではちっぽけなものなんだろう。
十月のあの日、帰宅してわたしと純くんから一連の出来事を聞いたお母さんはひどくショックを受けていた。わたしを襲った男はずっとお母さんに付きまとっていたらしい。ストーカーのようで気持ち悪かったとお母さんは言っていて、失礼ながらお母さんでもそう思うような異性がいるんだなと少し驚いた。
男は数日後に我が家を再び訪れて激昂していたけれど、それは簡単に解決した。警察に通報したとかじゃなく――残念ながら今はもうほとんどまともに機能していないから――お母さんが好きな人に頼んで、怪しい男が来たらやっつけてくれと家を見張ってもらっていたからだ。威勢だけ良かった男は見事にやっつけられ、それからはなにも手を出してこない。
お母さんにはいったい何人の好きな人がいるんだろう。娘がこんな被害に遭って男性への依存も多少は治るかと思ったけれど、さすがにそれは難しいらしい。今回はいいほうへ転んだみたいだけれど。
肉体的な繋がりを持っても、純くんのわたしへの態度は変わらなかった。心配していたようなことは起こらず、これまでどおりに幸せを感じている。わたしはきっと誰かに振り回されて、傷ついて涙を流すお母さんのそういう一面を嫌悪していたんだと思う。自分もそうなってしまうんだろうと。だからこそ心の繋がりを強く求めたんだと思う。
でもきっと、あの痛みと快楽の波の果てに、まだ知らない幸せがあるんだろう。わたしたちにどんな未来があるかわからないけれど、いつかその幸せに辿り着くことを、今は夢見ている――。
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