家路

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 朝、七時三十八分発、五嶺山行き。  僕は毎朝この電車に乗り、五駅先の学校に通っている。  六時四十五分に起床、七時から朝食、七時二十五分に家を出る。それがルーティン。  だけど最近、なぜか僕の食事は用意されなくなった。  父と、母と、二つ下の妹。三人のテーブルを横目に、僕は家を出る。  七時五十二分に学校の最寄り駅に着き、校舎に入るのは八時五分。すれ違う同級生らと会話することはなく、さながら透明人間だなとつくづく思う。  それが僕の日常だ。  だけど、その日は違った。 「海に行こう!」 「は?」  玄関を開けるとそこには、見覚えのない青年が立っていた。  真っ黒で艶やかな髪は鎖骨くらいまで伸びたボブ。男性にしては長めだ。前髪もちょうど目にかかりそうな、かからなそうな、中途半端な長さで、万年ショートの僕からしたら鬱陶しくないんだろうかと疑問だ。  オールブラックのコーディネートに身を包んだ彼は、制服こそ着てはいないけれど、僕と同い年くらいだろうか。  僕はとてつもなく怪訝な顔をしていたと思う。けれど、玄関を開けた途端に現れた彼は、人懐っこい笑顔を浮かべ、僕の手を引き走り出した。 「いやいや! 誰?」  なぜあんな怪しい人間についていったのか? 十五年の人生の中で最大の謎だ。 「君が学校に行かないことで誰に迷惑がかかるんだよ? 一日くらい、何も変わらないさ」  抗議する僕をことごとく論破し、彼は最寄駅とは反対方面に向かってぐんぐん歩いていく。  家から海までは、徒歩20分ほど。歩けないほどではないけれど、海岸の最寄駅はニ駅隣の岬駅だから、行楽に出かけるときは大抵電車に乗る。  けれど彼は、電車なんて知らないみたいに意気揚々と軽くステップでも踏みそうな勢いで突き進んでいく。  海特有の少しべたっとした風が肌を撫で、僕は海が近いことを知る。潮の匂いと波音が、少しだけ気持ちを高揚させた。 「さあ、行こう! ここまで来て海に入らないなんてもったいない!」  砂浜に着くと、彼は再び僕の手を取り駆け出して、今にも海に入らんとする。 「待て待て、制服が!」  だけど僕の願いも叶わず、彼は僕を海へと投げ出した。  咄嗟に手と膝をつき、なんとか全身ダイブは免れたけれど、制服はずぶ濡れ。一言モノ申そうと彼を振り仰ぐものの、夏の朝の日差しを背負ってけらけらと笑う彼があまりに無邪気で、僕は戦意喪失して、立ち上がると同時に彼に思いっきり水を浴びせた。  それから、僕たちは出来かけの海の家に座ってアイスを食べたり、近くの土産物屋を冷やかしたりして過ごした。土産物屋でアイスを買う時は、店主不在でお金だけ置いて出た。「セキュリティ甘いな」なんて、笑いながら。  そのうち僕は気づいた。これは、〝あの日〟と同じだ。 (いや、あの日っていつだよ)  自分の中で、何かが引っ掛かる。いつしか夕闇の迫る海を前に、僕は彼を窺う。  僕の視線に気付いたのか、彼はゆっくりと、その髪と同じくらい真っ黒でまんまるな目で僕を見つめ返した。 「君は……誰?」  彼はそれに答えることなくにっこり笑うと、「帰ろうか」と立ち上がった。  海の前には大きな国道が走っていて、いつもなら、たくさんの人や車でにぎわっている。だけど、今日は人っ子一人、出会わなかった。まるで、世界に僕と彼しかいないみたいに。  彼は足取り軽く、少し先を歩く。 「きみ、帰り道はわかる?」  くるくると、バレリーナのようにステップを踏みながら、彼は僕に問う。 「わかるさ、だって一緒に来たじゃないか。それに、どれだけここに住んでると思ってるんだ?」  中3にもなって道も覚えられないやつだと思われてるのかと、僕は憤慨して口を尖らせる。  だけど彼は振り返ることはない。  交差点を半分ほど進んだ彼の背に、僕は問いかける。 「ねえ――」  だけど、それは突如破られた。ひときわ大きなクラクションとライトともに。  誰もいなかったはずの道。トラックが猛スピードで彼に向かっていく。  その瞬間、僕は思い出した。 (やっぱり、これは〝あの日〟だったんだ)  そこで僕の意識は途切れた。 * * *  ――規則正しい機械音が遠くから聞こえる。  なんだか息苦しくて、僕はゆっくりと目を開けた。 「お兄ちゃん!? ママ、お兄ちゃん、目覚ました!」  そこからは周囲が忙しなく、だけど僕は別の世界に切り取られたかのように、ただ天井を見つめていた。 〝あの日〟。  いつものように学校へ向かった僕は、駅で黒猫に出会ったんだ。艶やかな真っ黒なそれが、とても凛として見えて、惹かれてしまった。  彼を追って、海にたどり着き、彼と一日を過ごして、最後、あの大通りで、走り出した彼にトラックが飛び込んできたから、僕は助けようとして――。 「お兄ちゃん、覚えてる? 一週間くらいずっと眠ってたんだよ」  妹の涙声に、僕は悟る。 (きっと、彼が僕に帰り道を教えてくれたんだ)  僕が現実(ここ)に帰ってくるためには、あの日のことをーー自分に何が起こったのかを思い出す必要があったんだろう。彼が思い出させてくれなければ、僕はずっと、日々をループしていたかもしれない。  夕陽に照らされた彼の瞳を思い出しながら、僕はゆっくり目を閉じた。 終
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