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「この店に来て食した数々のみそ汁を、どうか忘れないでほしい」
「猫神様……」
「温もりは、お前さんの胃の中に宿っておる。それを胸に、どうか強く生きるんだぞ」
猫神様の言葉を聞いて、ずっと気になっていたことの答えがわかった気がする。
どうしてみそ汁をメインに、この店は営業していたのか、それがずっと気になっていた。
猫神様の言葉が、答えそのものだった。
みそ汁は、日本人全ての胃の中に宿っている……誰しも一度は、みそ汁の優しさを感じたことがあるだろう。
「それが、この店の狙い……」
アキが独り言ちると、それを聞いたみんなは一斉に頷いた。
生きるも死ぬも、みそ汁の温かさを感じた上で判断するべき。この店のコンセプトは、いわばそういうことだ。
サリとネトが、各地方の特徴的な味噌を使って作ってくれた数々のみそ汁を、絶対に忘れないようにしようと誓う。
「今まで大変お世話になりました。私、そろそろ帰ります」
最初にネトが「おう、達者でな」と声をかけ、その次にサリが「頑張ってね」と声にした。
そして、猫神様が扉を猫の手でカリカリして開けてくれた。
「お前さんのこれからを、ワシらは期待しておる。自分らしくな」
猫神様の言葉には、最後までグッとくるものがあった。
アキは店の前で綺麗に一礼して、大通りに出られるであろう小道を進んでいく。
振り返ることはしない。
暗くなっている道を、ただ真っ直ぐと歩く。
「久しぶりに、外の空気を吸った気がするわ……」
車の通りが激しい大通り。人の行き交う量も、さすが東京というべきか。
また厄介な世界に戻ってきてしまった。いや、どっちが厄介な世界なのだろう。
アキは星の点々を見上げながら、ニコッと微笑んだ。
この奇妙な数週間を、忘れる日が来ることはないだろう。
舌と胃が一生覚えている。
車を運転しているあの人も、路面店のケーキ屋で働いているあの子も、もしかしたら人間の姿をした神様なのかもしれない……。
アキは週明け、早速退職届を提出しようと決めた。
〈了〉
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