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走って自室に戻る時に、革の靴のどこかを、石か、草の根にでも引っ掛けたのだろうか。それとも元から小さく穴でも空いていたか。どちらにせよ、気付く前にそうなっていた、ということだ。わたしが城の長い廊下で少し足を滑らせて、思うように動かない身体の一部を睨みつけた時には、もうそこには小さなほつれができていて、裂け目からちょっとだけ覗く小指の皮膚からは、薄っすらと血が滲んでいた。
亡霊が恐れる夜明け、それを知らせる鶏が鳴いた…といっても、まだ夜の闇は残る時間。わたしは今見てきた光景と、それからその後の、殿下のこと…いや、殿下とのこと、を思い出し、それを頭の中から振り払おうとするように靴を脱ぎ飛ばして、部屋の片隅に追いやった。
殿下の学友にしてはもったいないくらいのよい設えの部屋だ。それもこれも、前国王のご不幸のため、急遽大学から国にお帰りになる殿下がわたしに後から追って戻るようにとお沙汰をくださったことによるもの。
大学を辞めて国に戻るには、それ相応の側近をと、わたしも共に中退の手続きが取られた。最後まで渋った父に、悪いようにはしないからと、その形として表したものがこの部屋ということだ。
だが、王族の方々とは、もちろん雲泥の差。絨毯は必要と思われる所にしか敷かれていなくて、靴を捨てた素足は剥き出しの床に体温を奪われていく。
一足は西に、もう一足は東と、見事に真反対に転がった靴を見て、その行き先を認められるのならば、まだ正気だ、と。いつも冷静さを失わぬように努めるわたしの理性が残っていることにほっとして、冷たい床から這い上がる冷気で、むしろこの、火照る身体が早く冷めてくれますようにと、息を落ち着かせながら願った。
身に付けるマントが、今夜はやけに重い。いつもはこんなもの、着ていることも忘れるくらいに当たり前に身体に巻き付いていて、殿下の元へ走る時は羽根かと錯覚するくらいに軽く感じていたのではなかったろうか。
暑い。暑い夜だ。ひどく蒸す。蒸し蒸しとした夜の空気には不要の、身体に纏わりつくこのマントをさっさと脱げばいいのだ。靴よりこちらが先だったと、わたしはやっと気付いて留め金に指を掛けた。
──誓え…誓ってくれ…誓え!この剣に!
頭に殿下の声が響く。短刀を地面に突き刺し、今夜見たことは口外をしないよう、僕が正気を失ったようになっても、わかった素振りを見せぬようにと迫ったあの声が。いつも聞いているあの、声だ。低く、時に、喉から濁ったように苦しみを吐き出すしゃがれたクセのある声。それが美しく澄むことがある。それは決まって…恐れ多いが、自意識過剰と言われようとも、構わない、親しげな声で側に寄れとわたしを呼ぶ、その時だけだ。
留め金を摘んだ布の隙間から、わたしのものとは違う香りを嗅ぎ取り、慌ててマントを掻き抱いた。このマントを脱いでしまったら──殿下の温もりが冷たいこの空気と共に霧散してしまうのではないか?そうは、させるまいと、わたしはマントをきつく身体に巻き付ける。そうすると、まだその下の己の胸に殿下が潜んでいて、わたしの名を呼んでいるようにも思えてくるのだった。
──誓います。今夜、この目で見たことは、誰にも口外しないと、誓います。夜が明ける前に、闇に紛れてわたしたちは戻りましょう。それでは殿下、今夜はこれにて、ご機嫌よう……
そのまま、共に誓いを立てた仲間と去れたなら、わたしの靴は破けなかったろうし、重たいマントはさっさとこの身から脱ぎ剥がして、夜が明けきるまでの短い時間、眠れないまでも少しの間、横にもなれたかもしれないのに。
──待て、お前は、待ってくれ。行っていい、お前は、君は──少しだけ、側にいてくれ、僕の親友であり…一番の家臣である君には
一番の家臣、というところは、わたしにしか聞こえないように低く、小さく殿下は呟かれた。去って行く、残る者に選ばれなかった彼には聞こえないようにとの、殿下のお心配りであったのだろう。
上背のあるわたしよりも、ずいぶん小柄な身体が、カタカタと細かく震えていた。恐怖か?寒さか?それを決めてかかることはできない。殿下にはお考えがある。わたしの考えなど、そこに介入してはならない。殿下のされるように、申した通りに。なにも言わずに求められていることは察して先に動く。そうやって今まで殿下にお仕えしてきたのだから。
お身体を支えて欲しいのだろうか?崩れ落ちてしまいそうな震えるその肩に、恐る恐る触れてみる。やはり寒いのだろうか?片手でマントの裾を持ち、殿下の身体を包んでみる。
ブツブツと、小さくなにかを呟きながらも、殿下はわたしを拒絶されない。これで合っていたか?とわたしはまだ確証が掴めないながらも、そのまま。膝を折り、殿下の肩口にまで頭を低くくし今にも倒れてしまいそうに危うい身体をお支えしていた。
──……──!
呟きの中に、わたしの名が呼ばれたような気がした。だが問い返すことは許されない。黙って、お話しを聞き、返答を求められたら応じる。役者に例えるならばわたしは、芝居に出てきても名は呼ばれないような、表に出すぎぬ演者でなくてはならなかった。もちろん筋書きにも名前はない。
──ああ…なんという恐ろしい真実…これが運命ならば甘んじて受け入れよう。僕にはそれが、命を掛けるべき正義だということだ。今までは暗く、前の見えない道のりだった…そう考えれば今は、前途は明るく…希望なんてあったものではないが…見えている、それだけで気分はだいぶましになるものだ。だがなぁ──!だが……僕は、残念だ。君を家臣として国に迎えることが出来て、欲が出てしまった。君が側にいてくれて、穏やかに、心安らかに……王としてこの国を守れたらと、思い描いていた……ああ、さっきまで、先王の亡霊をこの目で見る、直前まで──!さあ、まともな僕とはこれでお別れだ、もう後には引けない。さようなら、最後に──!
聡明な声が、何度もわたしの名を呼んだ。殿下はマントの中に潜り込むようにして、わたしの背に腕を回すと、はらはらと涙を流しながらまた、わたしの名を呼んだ。親しげな、あの声で。
殿下が膝を折られるのと一緒に、わたしは地に膝を着いた。そうすると殿下は、右腕でわたしの頭を抱え込み、左腕でわたしの顔を掴み。何度も何度もわたしの頬にキスを落とされた。
殿下からの頬へのキスなど。それはお身内までにしか許されぬ。家臣のわたしになど、勿体ない振る舞いであるはずなのに。
霧の漂う、口から吐く息さえも凍らせるような寒い夜だったはずだ。先ほどまでは。だが、殿下の頬は朱く染まり、毛先からはぽたりと、汗の雫が滴り落ちた。何度も交わしたキスは、頬に限らず唇にまで、それから、わたしが誰にも見せたことのない場所にまで到達していた。
──ふふふ、ははは…暑いか?──汗をかいているな?
殿下こそ…と言いかけて、口を噤んだ。キスを受けても、わたしはやはり家臣のままだ。息を殺し、唇を噛み、声を抑えながら。全てをわたしに委ねて脱力する殿下の肩を支えるわたしの掌は衣服に染みを作り。わたしの髪をかきあげる殿下の指はぐっしょりと濡れた。
──お別れだ──もうまともな僕には会えないだろう。さようなら、親友としてどうか見届けてくれ、最後まで
殿下の唇が額に永く永く留まり、離れていった。それからわたしを突き放すようにして、胸から抜け出すと、殿下は夜の闇に駆けて行かれた──
わたしの裸足の足は、今や這い登ろうとする冷気までをも拒絶している。わたしの不埒な身体はその指先まで熱くして、マントの下に隠した皮膚の全てを、その肩を抱いた指、殿下の残した爪痕、それから数えきれないキスの名残を探して彷徨っていた。
殿下に背くことなど、もう怖くはない。お別れ?そんなもの、わたしは受け入れぬ。どこまでも、共に参ろう。
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