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太后遂断威夫人手足、去眼燻耳、飲瘖薬、使居厠中、命曰人彘。
太后、遂に威夫人の手足を断ち、眼を去り耳を燻す。瘖薬を飲ませ、厠中に居らしめ、命けて人彘と曰ふ。
この、人彘、という言葉が、強烈に私の頭にこびりついた。
昔の言葉や文章は難しくて私にはよくわからないが、でもじっと眺めていれば、なんとなくその意味は理解できてくる。
この女の怒りと憎しみがーー長い長い時を超えて、現代に生きるこの私にも伝わってきた。
……自分も、このサギを、人彘にしてやらねばならないのだ。
有沢すずには、自分がサギを探しに行くとは一言も伝えずに、ある日私は、昼間の派遣の仕事を休んで出かけた。
コートのポケットには、一本の刃物を忍ばせておいた。ネットで刃渡り12センチの、チタン強化コーティングされたナイフを購入した。
まず、満員電車の中で出刃包丁のようなものを振り回すことはできないし、一回ぐらい刺してやったところで、一人の人間を確実に殺すことなどできない。
電車の中でなく、ホームで殺るにしても同じことだ。細かい血管を切るばかりで、死に至らしめるような出血をもたらすことはできない。
私は、耳の下あたりにある外頸動脈に狙いを定めていた。
うまくそこを切ってやることができれば、死ぬまでに二十秒とかからない。
あのおかっぱ頭をわし摑んで、顎を上げさせ、真一文字に深く、その頸動脈を切り裂く。そこから吹き出す血が、電車の中を、そしてそのまわりの人々をも、真っ赤に染め上げる。
何よりも、私たちにとって象徴的なあの電車という空間の中でーーひと思いにあの世に送ってやることこそが重要なのだ。
そうでなければ、殺る意味がない。
鉄くんをかどわかすあの少女を、誅殺してやる。
どうせ私は、あのとき死のうとして死ねなかった身なのだ。いまでも自分は、ただ黙って死んだように生きている。
だったら、その後どうなろうがーーもうどうだっていいのだ。
サギの載っている電車の時間などは、ざっとすずから聞いていた。あとは、その電車の乗り込み口がどこか、だ。
それをしらみつぶしに調べていくのに、私はずいぶん手間取った。
始めて、三日目のことだ。私はついに、その姿を認めることができた。
後ろ姿だったが、間違いはなかった。本人の特徴は、もう嫌というほど頭に叩き込んである。
私は電車が来るのを待っている彼女とのあいだに人を三人おいたくらいの位置にまで、接近していた。その横顔も垣間見える。
初めて写真を見たときとは別種の衝撃がーーこの私を襲っていた。この感覚は、言うなれば裏返しの感動、のようなものだ。
あくまで負の領域に発生するような、そんな感動。
周囲の人々は平然としているが、明らかに『異質』な何かがいる、ということをたぶん全員認識している。
それぐらい、その存在自体がありえない。
私はもう、同じ女として、そばにいるだけでも嫌だった。
いますぐにでも、行動を開始したかった。でも急いて動くと、ことをしそんじる可能性がある。
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