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その手は、私のお尻に手のひらを合わせ、こちらがそれと気づかない程度に撫ぜていた。私はそれで、すぐにもひらめくことがあったのだ。
……この手は、もしかして鉄くんなのだろうか。
そのことに気がついた瞬間、全身に喜びが、まるで一面の野原にいっせいに花が咲いたように、満ち溢れたのがわかった。
ついにまたーーあの至福の日々が再開されたのか。
私はいますぐにでも振り返って、その存在を確かめたかった。鉄くん。でも、どうしてーー急にまた、この私のカラダを触ってくれるようになったの?
そう考えたとき、それまで花咲いていた私の喜びが、いっせいに萎れるのがわかった。
……この手は、違う。別人だ。鉄くんではない。
私にはわかる。いや、わからないわけがないのだ。
誰がただいま愛している相手とのデートの待ち合わせに失敗するだろうか。誰がーー電話でのその愛する相手の声を聞き分けられないだろうか。
誰がーー。
この手のぎこちない、ブザマな動きは、まったく鉄くんではないのだ。まるでまがいもののダイヤモンドだ。
いや、まがいものどころではない。まがいもののまたまがいものなのだ。
その手はさっきから、この私のお尻を我がもの顔のように撫で回していた。途端に私のうちに、突発的な怒りが押し寄せてきた。
私は無意識のうちに、履いていたヒールのかかとでその相手の足の甲を渾身の力で踏みつけていた。そのときはっきりと、バキッ、という音が聞こえ、ギャッ! という声がしたのと同時に私は、助けてください! 痴漢です! と叫んでいた。
その男とともに停車した電車から降りると、近くにいた男性が駅員さんをすぐに呼んでくれ、事情を話した。
それから駅事務所に行くと、警察が呼ばれた。
その男は、もう十二月になるというのに素足にサンダル履きで、おかげで私のヒールのかかとが直撃した部分は真っ赤に腫れ上がり始めていた。足の甲の骨が完全に折れてしまっているらしい。
駆けつけた警察官には、過剰防衛だとひとしきり叱られたが、自分がそのときどれだけ不快な目にあったかと、暗い顔でとうとうと述べただけで静かになった。
被害届を出すために、これからさらにこの男とともに時間を過ごすのも嫌だったし、足の甲を砕いてやったことで満足してもいたので、私は示談で済ませることにした。
ヨレヨレのジャージの上下を着た、髪の毛のべとついた小柄で年齢不詳、職業不詳のあの男は、二重に不運だった。
まずは、よりによってこの私を痴漢した、ということ。そしてもう一つはーー彼は鉄くんのまがいものだった、ということだ。
やがて解放され、駅事務所から出ると、自分がそもそも何をやっていたのかを忘れてしまっていた。
そうだ。結局私はーーこの日サギに会えずじまい、だったのだ。
その翌日も、私はサギを観察するために電車に乗り込んだ。
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