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初めての「シアワセ」
翌朝は早く目が覚めた。仕事をしていた時以来だ。
病気が発覚して仕事を辞めてからは、少々自堕落な生活をしていた。
ユメトを迎えてからは昼夜が反転しない程度にはなっていたが、いつも「もっと早く起きるですよー」と叱られているくらい遅い時間まで寝ていたのだ。
ダイニングに顔を出すと、ユメトがニコニコして「おはよー」と言った。
「ゴシュジン、早い起きたです!」
「約束したからね」
「じゃあ、僕も約束したベーコンエッグ焼きます。他はもう準備出来たです」
「ベーコンエッグは間に合わなかったの?」
「違うます!出来立て、アツアツ、美味しいを食べて欲しいで待ってたです!」
話をしながらも器用に卵を割り、フライパンにそっと入れる。ジューッという音がしたところで弱火にし、ふたをする。
不思議なものだ。この家にはフルオート電磁調理機も備わっていて、食材を入れたらボタン1つで希望の料理が出来上がるのだが、どれほど高級な食材でどんな料理を作っても、何世紀も前と同じ調理器具と調理方法でユメトが作ったものの方が美味しい。
テーブルの上にはスライスしたパンとジャム、畑で採れた新鮮な野菜サラダと、温め直した昨日のスープが並べられていた。
そこに出来立て、アツアツ、美味しそうなベーコンエッグが加わる。厚めに切られたベーコンはカリカリ、半熟に焼き上げた卵の白身はプルプルとふるえ、黄身は鮮やかな黄色だ。熱いうちに塩をふり、コショウをミルでひく。
「美味しそうだ。いただきます」
「いただくます」
改めて朝の光の中で、ユメトと相向かいながらテーブルにつき朝食をとる。なんでもない、なんでもない時間。温かい食事。それを誰か(それがアンドロイドでも)と笑いあいながら食べる。
たった、それだけのこと。
ふいに、時間が止まったような、世界が始まってから今までの永い時間が一瞬に閉じ込められたような、不思議な感覚に襲われた。
泣きたいような、笑いたいような、このままここにいたいような、走り出したいような、胸の奥から名前のない感情が溢れ出てくる。
実際僕の動きが止まっていたようで、ユメトが心配そうに覗き込んだ。
「…ゴシュジン?食事美味しいないですか?」
「え?…あ…」
何か言おうとして言葉が出ず、代わりに涙がポタポタとテーブルに落ちた。
「ゴシュジン!どこか痛いんですか?具合が悪くなりましたか?食事不味かったですか?」
慌てて僕に駆け寄ろうとしたユメトを制し、どうにか今湧きあがった想いを言語化しようと試みる。
「大丈夫だよ。…えーと、食事は美味しいよ。…うん、食事が美味しくて、ユメトがいて、朝の空気が気持ちよくて、つまり、うーん………」
ふいに答えに行き着く。
「しあわせだな、って思ったんだよ」
「シアワセ?」
「うん」
「…人間はシアワセだと泣くですか?」
「そうだよ」
「そうですか…」
なにやら思案顔になっていたユメトだったが、ぱっと顔を上げて笑った。
「ゴシュジン、しあわせ。だから、僕もシアワセです」
うん、君がそんな風だから、そんな君がいてくれるから、僕は僕の幸せに気付けたんだ。
「ユメト、僕と一緒に居てくれてありがとう」
「ゴシュジン、僕一緒いると幸せですか?今まで一緒いる人いなかったですか?」
「そうだね。子供の頃は両親や兄弟がそばにいたし、学生時代は同級生が居たけど、“一緒”ではなかったと思う」
「“そば”と“一緒”違うますか?」
「うん、僕の中ではね」
「僕、ゴシュジンと一緒出来るます?」
「君は僕のそばで僕と一緒に居てくれてるよ」
「……へへへー…へへー」
「何それ?」
「僕は幸せだと笑うです」
「……そっか…」
「はい」
夕べ寝る前の予定では朝食を食べたらすぐ計画の続きを練るはずだったが、結局午前中はふわふわとした多幸感に包まれていて、頭を切り替えるのに時間がかかってしまった。半日時間をロスしてしまったが、そんなことはどうでもよくなるほどの出来事だった。
童話の青い鳥じゃないけど、自分は本当は幸せだったことに気付けて、幸せを実感する瞬間があって良かったと思う。もう少しで僕はそれを知らずにこの世を去ってしまうところだった。
せっかく幸せに気付けたのにもうすぐ死んでしまうのかと少し悔しく思ったが、それ以上に死ぬ前に気付けたことの方が嬉しかった。
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