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土の中の虫たちが目覚め始めた。春がやってきたのだろう。私の全てが、身体中に張り巡らされた根に吸い取られ、私は気づけば地上で息をしていた。暖かな風に揺れながら、周りを見渡すとたくさんのオレンジ色の花。私自身もその花に生まれ変わっていた。夫が植えたのはマリーゴールドの種だったらしい。夫は私を見つけて、念入りに水を遣った。久しぶりに見た夫の顔はやつれてしまっていたけれど、優しそうなのには変わりない。笑顔で私の名前を呼ぶが、ずっと泣き続けていたせいなのか、泣き顔が張り付いたままのしわくちゃな笑顔だった。物言わぬ花になった私は、夫をただただ見上げるしかなかった。せめて、夫に癒しを与えられるように、私は私という花を風に揺らせてみせた。夫の涙が、花びらに落ちてきた。まるでまた、あの時のように抱きしめられて、優しく首を絞められた気分だった。
私の隣に咲くのは航太なのだろうか。ある夜、私よりいくらか背丈の高いその花と、私を、夫が手折り、優しく抱えて家の中に連れていった。そして、家中の柱を眺め始めた。私が最後に記録した航太の身長より2cm高いところに、油性マジックで黒い線が引いてある。夫にも航太が見えるのかしら?確かに私の中の航太はまた少し身長が伸びた気がしていたところだった。なんだ、あなたの中にも航太がいるんじゃない。私はちょっとの嫉妬と嬉しさが混ざったような不思議な気持ちになった。
夫は私と航太の匂いを嗅ぎながら、私たちの花びらを軽く食んだ。
「成海、航太……」
夫が私たちを呼んでくれている。
あの子に航太と名付けたのは夫だった。私の名前に海という文字が入っているからか、夫は航太が産まれた日に
「この子は君という海を航ってここに来てくれたのだね」
と言って、前もって考えていた名前を却下して航太と命名した。
夫と家族3人で、家の中にいると、思い出すことも多い。その思い出は、永遠に消えることは無い。夫もそれをわかっているはずで、だからこそ、ずっと苦しかったのかもしれない。
私が私の中の航太を手放さなかったことで、夫を追い詰めてしまった。
夫は私たちに向かって「ありがとう」と一言声をかけると、それを合図かのように火をつけたライターを床に落とした。
あらかじめ灯油を撒いて準備していたのだろう。火は炎となり、たちまち家中に拡がった。天井まで伸びる火の手。煙の中で意識を失った夫と私と航太もろとも炎に包まれていく。私が航太の身長を記録した柱たちも焼け焦げていく。赤と橙の炎は、マリーゴールドの花の色より情熱的だ。
消防のサイレンの音が鳴り響く。
私たちは3人身を寄せあって、炎の中に消えていく。
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