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流氷インフォの中の人
私と晴哉(せいや)は知床の流氷情報を発信する、いわゆる流氷インフォの中の人だ。
二人で国道33号沿いの遊歩道から、流氷の状態をチェックする。
私が覗き込むように背伸びをしながら、
「さて、今日の流氷はどうかなぁっ」
と言えば、私よりも少し背の高い晴哉が、
「まずまずってところかな」
「まずまずなんて量じゃないでしょ。十分多い」
「確かにそうか」
「そろそろ4月になろうって時期なのに、まだ流氷がたっぷりね」
「じゃあ3月29日の更新でもするか」
そう言った晴哉に合わせて私はスマホを操作し始めた。
そうだ、私はふと思ったことを話し掛けた。
「私たち夫婦ってさ、この流氷インフォを始めてから二人で旅行ってしたことないよね」
「それぞれが休む日というのは決めているけども、二人で休むことはできないからね」
「晴哉の休日はずっと私についてくるしっ」
「そこはお互い様じゃないか、恭子(きょうこ)も休みの日なのに俺の仕事についてきて」
「だって晴哉と一緒じゃないと意味無いじゃん」
「そう言ってくれる日々をできるだけ長くしたいな」
「長くするんじゃなくて、ずっと、ずっと、最後までっ」
「そうだな、そう言うべきだったな」
と晴哉が言ったところで私は晴哉にスマホを向けて写真を撮影し、私は、
「反省顔撮れたぁ」
と満足げに言うと、
「いや流氷を撮りなよ、俺の顔を撮ってどうするんだよ」
「流氷インフォに投稿しようかな」
「意味分からないでしょ、流氷インフォの中の人の反省顔写真が急にSNSへアップロードされたら」
「たまには流氷以外の写真もいいでしょっ」
「それは夏に、知床の植物や動物の写真とか載せているから間に合っているよ」
「えぇー、晴哉の顔も良いよっ、可愛いっ」
と私が言うと、間髪入れずに晴哉が、
「恭子のほうが可愛いよ」
「それは知ってる。じゃあ私の写真撮ってよ」
「分かった、分かったよ」
と晴哉はスマホを取り出して、写真を撮ったんだけども、いや!
「流氷を撮ってる!」
私がツッコむように言っても、晴哉は平然と、
「当たり前でしょ。SNSの流氷インフォを更新しないといけないんだから」
「後でいいでしょ!」
「ちょうど今、いい感じの流氷だったから」
「ちょうど今、かなりいい感じの私だったんだけどもっ」
すると晴哉はハハッと快活に笑ってから、
「いつも最高に良い恭子だからいつ撮っても大丈夫」
「じゃあいいけどっ」
「というか流氷って本当によく揺れているよね」
「私くらい?」
「……そんなに心が揺れているのかい?」
「何で心って思ったの?」
「いやなんとなく」
「心は全然揺れていないよ、晴哉一筋だから。って、それを言わせようとしてそう言ったの?」
「そんなことは全然考えていないけども」
「またまたぁ、策士めっ」
と言いながら私は腕で晴哉を突くと、
「いや本当に。心だって昼食は何にしようか迷っているくらいに思って言っただけで」
「昼食は決めている! 道の駅で流氷見ながらラーメンでしょ!」
「本当に流氷好きだね、恭子は」
「そりゃ好きじゃなければ、こういう仕事しないよっ。晴哉は流氷好きじゃないの?」
「それより恭子と一緒にいられることが好きかな」
「何それズルいっ、それ私が言ったことにならない?」
「いいよ、二人で言ったことにしよう」
「じゃあすごい両想いじゃん。やった!」
と私がバンザイしたところで、スマホのシャッター音が聞こえた。
「うん、撮れた」
「いや結局私を撮るのっ?」
「特に可愛かったから」
「不意打ちで卑怯だなぁ、晴哉はっ」
「じゃあとりあえず最初の更新しようか」
「いや話進めるの早い! これから私の可愛いところ言っていく流れでしょ!」
「そんな流れないよ。いつも明るくて、元気で、俺のこと好きでいてくれて、可愛い。それだけ」
「いやいや言うんかぁい……もぅ……」
「今日の国道33号線沿いの流氷、と」
と言いながらスマホを操作する晴哉。
いやでも、
「それだけじゃつまらないから、また変わったハッシュタグ付けよう」
「俺は言葉を作ること苦手だから、恭子に任すよ」
「じゃあハッシュタグは……ラブラブでも流氷は溶けない、にしよう」
「それは今の俺たちのやり取り無いと分からないからダメだよ」
「そんな”今の私たちはラブラブだけども”みたいなツッコミしないでよ。改めて言われると恥ずかしいよっ」
と照れ笑いを浮かべてしまう私。
晴哉もフフッと笑ってから、
「改めて恥ずかしいことを言ったのは恭子じゃないか」
「じゃあ言ったのは私、でも言わせたのは晴哉」
「まあそれでいいか、じゃあハッシュタグのほうを決めようか」
「今のちょっとドライ! もっと何かあるでしょ!」
「こんなもんでしょ、これ以上はもう無言でハグとかしかないよ」
「じゃあそれで!」
「いやもう口に出しちゃったから、無言にはならないから」
「屁理屈ばっかり!」
「ばっかりじゃないよ」
と言いながら私のことを優しくハグしてきた晴哉。
「いやハグするんかい!」
とつい大きな声が出てしまう私。
ハグを終えて、私からちょっと離れた晴哉が、
「無言でハグは無理だけども、何か言ってからのハグは無理とは言っていないから」
「屁理屈ばっかりぃ」
「じゃあ、本当、そろそろ更新しないと。どうする? 動画は撮っておく?」
と晴哉が聞いてきたので、私は頷きながら、
「動画も撮ろうよ。でも酔わないようにね」
「酔うのは恭子のほうじゃん。俺はあんまり酔わないよ、流氷見ていても」
「私は結構酔っちゃうなぁ、揺れる流氷を見ていると本当に気持ち悪くなるよね」
すると晴哉は少し懐疑的に、
「……本当に流氷好きなの?」
「大丈夫、私は晴哉を見ていても酔っちゃうから」
「じゃあ好きなモノを見ていると酔っちゃうんだ」
「また私に好きって言わせようとしているじゃん」
「そんなつもりは無かったけども。まあ流氷の動画撮るね」
「どうぞ、どうぞ、静かにしています」
ちょっとした沈黙後、晴哉が、
「こんな感じかな」
「じゃあそろそろいこうか。流氷を撮ったら次はデスク・ワーク!」
すると晴哉が何かに気付いたような声を出してから、
「ちょっと待って、恭子」
「何?」
「手前の流氷ばっかり見ていたから気付かなかったけども、あれ、蜃気楼じゃないか?」
「本当だ! 蜃気楼出てる! 全然気付かなかった! もう! 晴哉! 流氷インフォ失格じゃん!」
「その場合は恭子もでしょ……というか、棒状の柱も見えるから、あれ、多分幻氷じゃないか?」
「えっ、どこどこ?」
「ほら、あそこ」
「本当だ! 幻氷だ! 氷山みたいな蜃気楼の上の部分が棒状の柱になっている! ちょっとだけだけども!」
「これも写真で撮って、SNSにアップロードしようっと」
ワクワクしている感じの晴哉。
確かに幻氷は珍しい現象なんだけども、と思いながら私は疑問に思っていることを口にしてみた。
「でも何かおかしくない? 蜃気楼にしてはちょっと近くない? もしかすると蜃気楼じゃなくて、あのサイズの流氷がやって来ているんじゃないの?」
「そんな話、聞いたこと無いよ。そんなはずないじゃないか」
「分かってるよ! そんなこと! 言っただけ!」
と私はちょっと焦りながらそう言うと、晴哉はしっかり遠くを見ながら、
「いやでも確かに近くに感じるな……ちょっと経ったらまた見に来るか」
と語気を強めてそう言ったので、私が言い出したこととは言え、
「本気で気にしてるの?」
と聞くと、
「いやだって、何か近いから」
と晴哉が答えたので、まさか本気であのサイズの流氷だと思っているのかなと思いつつ、
「まあ幻氷は珍しい現象だからね、また見に来たくなるよねっ」
すると晴哉は意味深に、
「幻氷だといいけどな……」
と言ったので、どうやら本気であの、幻氷サイズの流氷がやって来ていると思っているらしく、私はちょっと呆れるように、
「ちょっと、晴哉、本気で不安になっているの? 何からしくないよっ」
「それは海が、らしくない海だからだよ。何かいつもと違うような」
「気にしすぎじゃないっ?」
「いや8年くらい流氷インフォをやっているけども、こんな奇妙な感覚は初めてなんだ。ゴメン、何か変だよね、俺」
「まあ晴哉は私よりも流氷インフォ歴長いしなぁ……よしっ! 全面的に信頼します! ちょっと経ったらまた見に来よう!」
「うん、有難う」
そんな会話をして、観光協会の事務室に戻った。
晴哉とは別々の仕事をしていたんだけども、ふと晴哉が気になって、そちらを見てみると、晴哉は唸り声を上げて、頭を抱えていた。
私はコーヒーメーカーにワンタッチでコーヒーを淹れて、晴哉の前にコーヒーカップを置いた。
すると晴哉はこちらを見て、小さく「ありがとう」と言って、コーヒーを口へ持っていった。
私は溜息をついてから、
「幻氷のことでしょ、コーヒー飲んで温まったら一緒に見に行こうか」
と言うと晴哉は首を軽く横に振って、
「いや何なら別に俺一人でも」
「そういう台詞禁止っ。一緒に行こう?」
「ゴメン……何か危険な想像しちゃって、俺一人のほうがいいかなって思っちゃって」
「じゃあなおさら一緒だ、なおさら一緒じゃないと絶対ダメ。何かあったら二人のほうが絶対いいでしょ?」
「まあ、そうか。分かった。じゃあ恭子、一緒に行こうっ」
「あっ、コーヒーまだ残っているけども」
「いや何かすぐに見に行きたいんだ。ゴメン、せっかく淹れてくれたのに」
「ううん、ちょっとでも飲んでくれて有難うっ。まだその余裕があるって分かったから」
「じゃあ行こうか」
「うん!」
と私はできるだけ元気に返事をした。
何だか晴哉の様子がおかしい。
幻氷が気になるというよりは晴哉が気になるので、一緒にいてあげなきゃ。
国道33号線へ着くと、シカがたくさんいた。
でもシカは暴れ出す様子も無いので、車内から出た。
「あっ、シカがいっぱい来ているっ。シカが幻氷を見に来たのかなっ?」
と言ってみたんだけども、明らかにシカの頭数が多すぎる。
まるで集まってきているように。
「幻氷……じゃない!」
と晴哉が叫び、改めて私もそちらを見て、目を皿にした。
「……! 近くなっている! ねぇ! 晴哉! 明らかに近くなっているよねっ? ねぇっ?」
「そうだな、近くなっているな。間違いなく」
「ちょっと! 大丈夫かなっ!」
「少なくても蜃気楼ではなくて、実体のある、何かだ……!」
「写真で撮って流氷インフォにアップロードしなくちゃ! あと観光協会に連絡もっ!」
「遠くだったから棒状の柱が一本に見えていたが、本当は柱が二本あったんだな。それに……」
私は急いでスマホで写真を撮影し、すぐさま流氷インフォの更新をした。
晴哉は唇を震わせながら、
「ちょっと茶色が掛かっているような気もする……」
「確かに白だけじゃないかも……どういうことっ?」
「いや分からないけども、分からないけども、嫌な予感だけはするんだ」
と晴哉が言ったところで、私はさらに驚愕した。
「というか! 何かシカがどんどん集まってきている!」
「大災害の前触れは動物が騒ぎ出すって言うけども、まさか」
と晴哉が小声で言い、私はその声とは反比例するかのように、
「ちょっと! 変なこと言わないでよ!」
と大きな声を出すと、晴哉が、
「ゴメン、恭子。とりあえずシカが危ないからどこかへ行ってもらうね」
「うん、晴哉のいつもの、シカが危険信号を発する時の声で、ちょっとこっちに来ないようにしてっ」
晴哉が特技である、シカが危険信号を発する時の声真似をすると、シカ数頭が私たちの傍から逃げていった。
でも、といった感じで晴哉が、
「何匹が逃げて行ったけども、何だか、すぐに増えそうだな」
「何か、すごく変だね、変な感じがする」
「協会に連絡も入れる。場合によっては避難を出さないといけないかもしれないな」
「じゃあ晴哉が電話している間、周りを見張っているねっ」
「というか恭子、一回車の中に戻ろう」
「うん、そうだねっ」
車内にて、電話を終えた晴哉が、
「とりあえず見張っていろって、あとさ、恭子は」
「禁止! それ以上言うのは禁止!」
「……本当に危険なことが起きるのかもしれないんだぞ」
「じゃあなおさら一緒でいるべきじゃん! 私だけ安全なところに行くなんて嫌だからね!」
「……そうか、じゃあ、一緒に、いるしかない、のか……」
「嫌なの? 私と一緒にいることが嫌なの?」
「……恭子に何か危険があることが嫌なんだよ」
「そんな私だってそうだから。一緒だから、一緒だから、ずっと一緒だから、ね?」
「分かった……俺が守るから、大丈夫……」
と言葉を確かめるように喋る晴哉。
私はできるだけ覇気を込めて、
「そう言うと思った!」
と言うと、少し俯いて晴哉が、
「でも、運転席には恭子が座っていてくれ」
「何でそんなこと言うの? 私、どっちにしろ晴哉を置いていかないよ?」
「頼む。それだけは、それだけは……」
「嫌だよ、というかそんな薄情なことしないし、私のことそう思っているの?」
「そういうわけじゃないんだが、そうだ、ほら、俺、シカがいっぱいいるところ運転する自信無いから」
「そんな嘘……分かった、聞くよ、でも私は晴哉のこと置いていかないからね」
すると間髪入れずに晴哉が、
「うん、ゴメン」
と言ったので、私も即座に、
「何そのゴメン」
と言うと、晴哉が小さな声で、
「いや……ゴメン……」
「ゴメンも禁止! はい! 今シカいない! 席交換しよ!」
「じゃあ俺だけ外に出るから、恭子は中で席移動して」
「はいはい、分かった分かった、今シカいないから大丈夫だけどねっ」
「いや俺には”声”があるから」
「危険信号を発する声真似ねっ」
席の交換をした私と晴哉。
私は近付いてくる幻氷よりも、むしろシカの多さに、
「それにしてもシカが本当に何でこんなにってくらい、大量発生しているね、本当に怖いね、シカに襲われて死んじゃう事故とかよく聞くからさ」
と話し掛けたつもりなんだけども、急に黙ってしまった晴哉。
いや、
「急にどうしたの?」
と聞いても何か考えているような顔をして止まってしまっている。
仕方なく私は、
「やっぱり動物たちも不安なんだね……」
と独り言覚悟でそう言うと、晴哉が間髪入れずに、
「でも」
「何?」
晴哉は一呼吸置いてから、
「何でこの海岸、シカだけなんだ……?」
「確かに、カモメとか、他の動物の気配は無い、よね」
と私は相槌を打つと、晴哉は続けて、
「本当にカモメくらいは飛んでいたっていいはずなのに」
「シカにだけ、危険な存在、みたいな?」
「いや、俺に釣られて危険信号を発したシカはいたが、シカ自体はまだ一度も危険信号を発していないんだ」
「静かだよね、このシカたち」
「まるで静かに待ち望んでいるような……」
「待ち望んでいる……そんな……何を?」
「分からない。だけども、まるでシカたちが厳かに何かを待ち望んでいるような気がするんだ」
「ど、どういうこと?」
と私は焦りながら、晴哉に聞くと、
「英雄の帰還を待つ兵士たちのような、そんな嵐の前の静けさを感じるんだ」
「そんな……」
「この状況を流氷インフォで逐一知らせるんだ、それが俺らの役目だ」
「うん、知らせないと……本当に、本当に、二本の柱が大きくなってきた……いや!」
と流氷側を見た私は自分の目を疑った。
「どうした、恭子」
「あのシルエットって……シカ?」
と言いながら私が指差すと、晴哉も気付いたらしく、声を荒らげ、
「巨大なシカだ! 巨大なシカが大きな流氷に乗ってやって来た!」
「あんな大きなサイズ、上陸してしまったらどうなってしまうの……」
「もし普通のシカと同じように植物を食べるんだとしたら、北海道の植物は壊滅状態になってしまう」
「ただでさえ普通のシカでも災害と言われるくらい食べられているのに!」
「同じように植物を食べればまだいいかもしれないが……」
と晴哉が恐れるようにそう言った。
私は気を保つためにもできるだけ大きな声で、
「ちょっと! 変なこと言わないでよ!」
「あのサイズだ、一体何を食すか分からないということだ」
「どうするの? もう逃げたほうがいいのかな?」
「いや、恭子はこの場から離れて」
「……ちょっと! 晴哉はどうするのっ!」
「どうやらあの巨大なシカは、毛が長くて掴みやすそうだ」
「晴哉が掴んだ程度じゃ、きっと何も感じないよっ?」
「だから良いんだ」
「どういうこと?」
「巨大なシカに登って、耳の中に入って、危険信号を発する声真似をして追い返してみる」
「そんな! 荒唐無稽なことできると思っているのっ?」
「でもやるしかないじゃないか! このまま何もしないで情報を発信するだけなのかっ?」
「それでいいじゃない! 私たちはあくまで流氷インフォの中の人なんだから! もし耳の中に入るのなら、ヘリコプターに乗って降り立てばいいじゃないのっ!」
「その間に何か起きてしまったらどうするんだ! それに上から行ったら確実に警戒される!」
「そんなこと晴哉のすることじゃないよ! やめようよ!」
と私は晴哉の腕を掴んだ。
でも晴哉はその私の手を振り払って、
「俺がすることかどうかは俺が決める」
「嫌だ! 私が決める! 晴哉は私のモノなんだから! 私が決めるから!」
「そろそろ上陸しそうだ……ゴメン、行ってくるね」
「……やっぱり止まらないんだ、いつだってそうだ、晴哉は。大事なところは全部自分で決めちゃうね」
「ゴメン、今やれる人は俺しかいないから」
「自分で何でも決めるんだったら、大事な言葉も自分で言って」
と私は晴哉の目を見ながら言うと、晴哉は頷いてから、
「必ず生きて戻ってくるから」
「分かった。生きて戻ってくる晴哉が大好きだから」
「じゃあ行ってくるね」
「うん」
晴哉は一切こちらを振り返らずに、あの巨大なシカへ向かって行った。
晴哉は巨大なシカの足にしがみつくと、どんどん登っていった。
晴哉と比べてみると分かる、あの巨大さが。
三十メートルはあるかもしれない。
だからこそ足に登りついた晴哉には気付いていないようだった。
どうにかこのまま巨大なシカが動き出さないでと思って願った。
晴哉はぐんぐん進んで行き、ついに巨大なシカの耳あたりまできた時、私は絶句してしまった。
何故なら晴哉が巨大なシカの耳の穴に落ちたから。
その数秒後、巨大なシカは暴れ出し、近くにいた普通のシカたちも慌てふためくように右往左往し始めて。
私の乗っている車にシカがぶつかってきて、車が前後左右に動かされる。
あぁ、もう終わりだ、と思ったのが私の記憶の最後で、気付いた時には私は病室のベッドにいた。
どうやら気絶していたらしい。
ベッドから飛び起きて、ナースコールを押し、すぐさま看護師を呼ぶと、晴哉の安否を確認した。
その結果が。
私はベッドで横たわっている晴哉に話し掛ける。
「晴哉の声でショック死した巨大なシカは安全確認をしたあと、みんなで食べたらしいよ。結構みんなワイルドだよね」
すると晴哉が寝返りを打ち、
「まあ俺ほどじゃないけどね」
と言って笑った。
晴哉は無事だった。
巨大なシカの耳の中はふかふかで、巨大なシカはその場に倒れ込んだけども、そのふかふかさがクッションになって無事だったらしい。
その後、私も晴哉も無事退院して、また次の流氷シーズンがやって来た。
晴哉と一緒に流氷を見ながら、私は言う。
「今年も流氷のシーズン到来ね、揺れに揺れているね。見てると酔ってくるから、ちゃんとは見ないようにしないと」
「まるでゆりかごみたいだね、恭子」
「そうだね」
「というかさ、まだ休んでいてもいいんだよ、出産したばかりなんだから」
「大丈夫、今日は両親の家に赤ちゃん預けているし。初日は一緒に流氷インフォしたいよ」
「また一緒に流氷インフォができるようになって良かったね、嬉しいよ」
「そんなのこっちの台詞じゃん」
と私が笑うと、晴哉も笑顔で、
「そうだね、二人で言ったことにしよう」
「じゃあすごい両想いじゃん。やった!」
と私がバンザイすると、スマホのシャッター音が聞こえてきた。
(了)
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