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雨が上がって
中学生にとって最大イベントである修学旅行が終わり、総体予選も結果と手を繋いで幕を閉じてしまった6月。
まだ部活の引退までは1か月くらいあるけれど、私の中であの日。審判がコールしたゲームセットを聞いた瞬間が、まさにその2文字だった。
あとはもう体育祭と合唱祭。それから……はぁぁ。モチベーションが上がらないよぅ。
私は教科書を見つめる先生の目を盗んでノートをとる手を止めた。すぐ横に並ぶ窓ガラスを見上げると、教室全体を染めるどんよりとした空がある。雨が降っていた。
はぁぁ。私は受験生だよ? これからもっと頑張らないといけないというのに、なんでのっけから梅雨入りなの?
しとしと、しとしと、懸命に大地を濡らす雨に対して、私はそう心の内側で嘆いた。
本当、天気くらい味方をしてくれればいいのに……。
テニスコートの上で呟いたばかりのその台詞を、私はまた心の内側で恨めしく繰り返すのだった。
「透。今日も渡り廊下で筋トレだね」
先生にさようならをした後、斜め前に座る友達が私のところへ来て言った。この子も私と同じソフトテニス部だ。
「うん。楽だけどだるいね」
「ねー」と友達は、私の返事に笑う。そして友達は小学生の頃から変わらないころんとしたボブヘアを一まとめにすると、私の支度を待った。
髪をまとめる。これはこの子が部活前に行う儀式。いや、この子なりの切り替えスイッチなのである。
私は? うーん。そんなのない。普通に体育着に着替えるだけ。と言っても6時間目の技術の授業で着替えたままの姿である。髪だって肩を越すくらい長いから、家を出る前からすでに三つ編みだし。
「お待たせ。じゃあ行くか」
「うんっ」
私たちは、ラケットケースに付けた、お揃いのテニスボールのキーホルダーを揺らしながら廊下を歩く。テニスボールと言っても、私たちが使う白いふにふにじゃなくて、黄色い硬式のやつ。
なんで軟式のタイプのデザインはないんだろうね。ラケットを添えてくれればソフトテニスってわかるのに。
そんなことを考えたり友達とたわいもなく喋っていると、あっという間に渡り廊下へと辿り着いた。すぐ近くのアリーナでは、バスケットボールのダムダムする音が轟くように響いている。
今日は3階の教室とアリーナを繋ぐ、この空中に浮いた場所が私たちの活動拠点だ。
私たちは他のみんなが集まるまで壁に寄りかかり、窓越しに外の景色を眺めながら喋る。帰宅部の人たちの姿が見えた。羨ましい。
でも高みの見物をしている気分になれると言うか、段々と傘が増えていく感じが普通に面白かったりもする。傘をさしている時って、わざわざ空を仰ぎ見たりしないから、気兼ねなく眺められるんだ。
「透。実はこの間、新しい傘買っちゃったんだ。朝は降ってなかったから、帰りに使うのが楽しみでさ」
「へーいいなぁ! どんなの?」
友達は身振り手振りを交えながら教えてくれる。ちょっと大げさだけれど嬉しいのだろう。聞いてるこっちまで笑顔になれた。
どうやらこの子の髪型みたいに、ころんとしたデザインのよう。生地の部分が広がっていなくて、すっぽり包まれる感じなのだとか。色は青色で、縁取るように白いラインが入っている、夏大好きな友達にぴったりの可愛い傘のようだ。
「わ~似合いそ~。いーなー。私なんて3年間ずっとビニール傘だし」
「黄色のね。幼稚園生か!」
「は? 真っ黄っきじゃないし」
「じゃあバナナ」
「だぁから——」
本当たわいもない。
でも平和主義な私たちは、ポリシーって言えるくらい他人の悪口が好きじゃないから、2人で居るとお互い心が楽で、不安と退屈が入り混じる毎日でもこうして笑い合って過ごせているんだ。
「あ! 居た居た!」
そんな風に友達が担任の先生に呼ばれて行ってしまった。そしてなぜか友達は、そのまま部活に戻っては来なかった。
先生の強張った顔。友達の代わりに荷物を取りに来た顧問の先生の慌てた顔。
渡り廊下の窓に向かって振り仰ぐ、友達が見せた笑顔。
1人ぽつんと見た真新しい鮮やかな青色の傘を、クジラみたいだっていじろうと思っていたのに叶わなかった。
友達はその日以来、学校に来なくなって、家庭の事情で急遽転校してしまった。
お母さんが病気で亡くなったのだそう。とても信じられなかったし信じたくなかった。
だって友達のお母さんには、初めて会った小学校入学の頃から今までずっとお世話になっていたし、私にとってもかけがえのない人だったんだ。
私は同時に大切な2人を失ってしまい、まるで胸にぽっかりと大きな穴が空いたみたいになった。
でも友達はもっとだろう。もっともっとだろう。
なのにお母さんが危篤だと報せがあったあの日。突然置いてけぼりにされて意味がわからないといった表情の私に、辛くても心配かけまいと笑って傘を振ってくれた友達。
渡り廊下に立つ私へ背を向けた瞬間、きっと泣いていただろう。
私はそんな子に向かってどう言葉を伝えればいいのかわからなくて、友達に会うことだけでなく連絡すら出来ずにいた。
友達と笑って過ごせるはずの6月が終わろうとしていた。
もうすぐで体育祭だ。
梅雨の時期に、なんで体育祭をするんだろう。
毎年そう思っていたけれど、今はどうでもいい。私は心の底から笑うことが出来なくなっていた。
「透~。部活行こー」
「あっ、うん」
でもこうして笑っている。みんなが安心してくれるから、笑いたいと思う。私は平和主義だから。
私は体育祭の練習で汚れてしまった体操着を内心恥じらいつつ、他のクラスから来てくれた部員のみんなの待つ廊下へと出た。
不思議だ。一緒に歩く人数も増えて、こうして賑やかに笑っているのに。
私の気持ちを確認してくれるように、部員のみんなは話題を振って笑いかけてくれるのに。
それがとても嬉しいはずなのに、すごく苦しい。まるでバスケットボールが床に繰り返し叩きつけられていくように、鈍い痛みが胸へと轟くんだ。
ごめんね。みんなはとても優しいのに、本当、ごめんなさい……。
「やばっ。ちょっとトイレ寄ってから帰るねっ」
部活が終わった後。私はそう言って部員のみんなから離れた。
部員のみんなは背中越しに待つよと言ってくれたけれど、時間かかって恥ずかしいからいい、また明日ねと元気な声で返すと、心配しつつほっとした顔になってばいばいをしてくれた。
私は駆け込んだトイレに籠って、部員のみんなの声が遠くなるまで身を潜めた。そして再び楽しげに話す声を頼りにトイレから廊下へと出ると、私は隣にある水道の上の窓から顔を覗かせた。部員のみんなのさす傘が、校門を跨いでいく。
あーあ。何をやっているんだろうな私……。人で無しか。
1人で歩く廊下は静かだった。まだバスケ部はアリーナで練習中。野球部も室内の練習場に居る。
だから校舎に残っているのは、先生か物好きくらいだろう。
「あ……」
男子の声が聞こえた。
俯いていたから気付かなかったけれど、前から人が歩いて来ていたみたいだ。
真ん中を歩いていたから邪魔だったのだろう。目を合わせると彼はびくっと瞬きをした。申し訳ない。
けれどここのところ私の顔を見ては笑いかけてくれる人たちばかりだったから、ちょっと新鮮で面白かった。
「あの! 最近、顔、出さないですよね?」
「……?」
「ええっとっ、その……向こうの渡り廊下からよく……外を眺めていましたよね……?」
“向こうの渡り廊下”をさす指先が震えている。その折れ曲がった指と弱々しい立ち姿を見て、そんなんじゃ障子にも穴をあけられないだろうなと思った。
「はぁ、まぁ」
眉根を寄せて返事をすると、彼は私とは対照的に、ぺかーんとお日様が照らすように笑った。
こっちが怪しんでいるというのに、なんて自分勝手な笑顔なんだろう。やっぱり新鮮に思えた。でも。
渡り廊下から外をか……。
彼に悪気はないのだろうけれど、触れては欲しくなかった。
私はいつだって、友達と過ごしてきた宝物みたいな時間を忘れてなどいないから。
「私、急ぐんで」
「あっ……」
何か言いたそうにしていた彼に会釈をして、私は今度こそその場を後にした。
そうして彼とは別れたのだけれど——
「あの!」
「10分だけ!」
「あと5分だけ僕にくださいー!」
部員のみんなに、仮病を使ったその日以来。
渡り廊下で練習がある度に、私は彼から声を掛けられるようになっていた。
だから自ずと、
「明日は3分って言うよきっと」
私はそんな風に部員のみんなからからかわれるようになった。
なんでこんなことになったんだ? 奴は一体どういうつもりなんだ?
私の中でそんな疑問が渦巻いていた。
しかし会釈をしてやり過ごしていた私に、とうとうこの日が来てしまう……。
「すみませんっ、この子恥ずかしがり屋なんです!」
「そうなんですっ。あっ、こら透っ、逃げるなっ」
「じゃあ私たちは先に帰るから、頑張れ? あとは若いもの同士で~」
部員のみんなは、彼が使う空き教室に私を置いてドアを閉めて帰ってしまった。
「じ、じゃあ私はこれで」
「待ってください! 迷惑じゃなかったら僕の絵」
「絵……?」
「っ、はい!」
振り返ると、まただ。
「僕の絵を、見て行ってくれませんか?」
私は彼のお日様の笑顔に迎えられていた。
「ここどうぞ」
彼に促されて、私は窓側の席に向かう。
ドアは開けっ放しだけれど、雨が入らないように窓を閉め切っているせいか絵の具のにおいがした。
「他の子はもう帰ったんですか?」
「う、うん。もうバレちゃったから……って、なんでもないです! これなんですけどっ」
う。こっちまで顔が赤くなるから、その反応はやめて欲しい。
私はその熱を悟られないように、彼に目配せをしてから画用紙に視線を移した。彼も私の視線の先を追ってくれる。
うわぁ……上手い……。
見せてくれたのは、彼が描く水彩画だった。繊細な筆遣いで色を何層も重ね、とても丁寧に描写されていた。
けれど胸が締め付けられた。
雨の中、傘をさして歩く生徒たちが描かれていたからだ。
「あの、見て分かると思うんですけど、まだこれ完成じゃないんです」
彼の言う通り、傘の色が塗られていないものがあった。
「それで良かったらこの絵を、一緒に完成させて欲しいんです……!」
「えっ?」
「だめ、ですか……?」
い、いや、そんな子犬みたいな目で言われても困るんですけれど……絵心なんてないし……。
けれど雲がかかるお日様みたいな彼の笑顔に焦ってしまって、私はまた、思わず頷いていた。
私はパレットに視線を移す。
雨か紫陽花に使われた色だろうか。数種類の絵具を混ぜ合わせて、微調節したであろう色のタネ。その隅っこに残った、鮮やかな青色に目が行った。
「これですね」
彼は私が答える間もなく、パレットを持ち上げて画用紙に色を付けていく。たくさん水を含ませて、淡く色を重ねた。丁寧に、丁寧に。
でも、そうじゃなくて。
「も、もっと鮮やかな色がいいです。その隅っこに残った、く、クジラみたいな青色」
「っ、はい!」
彼は嬉しそうに返事をすると、絵具をパレットに出して色を塗り始めた。
「こんな感じですか?」
「そ、そうです。あっ、あと縁取るように白のラインを」
そんな調子で絵が完成された。ひときわ鮮やかに塗られた青い傘。大好きな友達が描かれるその絵を見て、私は彼の前だと言うのに憚らず泣いてしまった。
でもお陰でよくわかった。私にはやっぱり、あの子が必要なんだって。
それから私は、彼に見守れながら友達に連絡を入れてみた。するとすぐに繋がって、電話越しに「ごめん!」が重なった。
お互い思いは同じだったみたいで、本当に嬉しかった。
「透。何スマホ見て笑ってるの?」
「ううん、なんでも。あと5分だけ待ってだって」
そして7月になった。
私は友達と学校近くの中央公園に来ている。市で催し物がされているからだ。
今日の天気も雨だった。
私たちの目当ては彼の絵、あの傘の絵だ。湿った芝生の上を鼻歌交じりに歩きながら彼の絵を見つけると、足を止めて笑い合った。
絵の真ん中には友達の青い傘。そしてその隣には、後から描き足してくれた黄色い私のビニール傘が並ぶ。
「見て見て透。この傘の色もすごくきれいだね。宝石みたい」
「ああこれはね、私たちの傘の色を混ぜ合わせて作った……あ! 来た来た!」
彼が来ると、ちょうど雨が止んで陽が射し始めた。
「「おーい」」
彼は私たちの声に応えるように、雨をまとったビニール傘を揺らす。
お日様に照らされた彼のビニール傘は、エメラルド色にきらきらと輝いていた。
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