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『10日11時、いつもの場所で』
ラインの画面に表示された文章を無表情で確認すると、私はすぐさまメッセージを削除した。
「ママー!お化粧終わった?」
「ごめーん!もう行く!」
娘に呼ばれスマホを鞄に突っ込むと、ダイニングテーブルに置いてある弁当の入った保冷バッグを持ち玄関へ急ぐ。車に乗り込むと、バックミラー越しに頬を膨らませた娘の顔が見えた。
「遅いよー!」
「ごめんごめん」
「出発するよー」
のんびりした口調で旦那が言い、エンジンをかける。
「水族館初めてだから楽しみ!」
「そうね。どのくらいかかるの?」
「日曜日だから道が混んでるだろうし、1時間くらいかなぁ」
「早くつかないかな」
嬉しそうな娘にバックミラー越しに笑い返した時、スマホが振動した。チラリと画面だけ覗き、メッセージは確認せずそのまま前を向く。
「お弁当、大変だったでしょ?お疲れ様。良かったら少し寝なよ」
「でも……」
「僕の事は気にしなくていいから」
「有り難う」
朝早く起きて弁当を作った私を気遣ってくれる旦那。運転する旦那を気遣う私。互いを思いやり、いい関係を築けていると思う。思いやる気持ちに嘘はない。
私は小さく欠伸をすると、旦那の言葉に甘え目を閉じた。
「ねー、まだ水族館入れないの?」
「もうちょっと待っててね」
道路は空いていたものの、水族館に着くと駐車場から激混みだ。建物を目の前にしてなかなか車を停められず、娘が不機嫌になる。それでも旦那はイライラせず辛抱強く空いている場所を探し、何とか車を停めた。
入場口まで歩くとまた長い列ができていて、娘の機嫌がまた悪くなる。しかしあらかじめ買っておいた入場券を見せると、娘の機嫌はあっと言う間に良くなった。
「あー!ようやく入れた!涼しいー!」
「はぐれないように、ちゃんと手を繋ぐのよ?」
「パパと繋ぐ!」
「はいはい」
「ママ、はぐれないでね」
「はーい」
娘より心配そうに私を見る旦那。
「一花ちゃん、大丈夫?」
「いざとなったらスマホあるし、大丈夫よ」
「あっ!見て見て!ペンギンさんがいる!」
娘が声を上げ、早く早くと旦那の手を引く。
手を引かれるまま小走りで娘の後を行く旦那が、チラリとこちらを振り返った。
「ふふ、心配性なんだから」
私は苦笑いすると保冷バッグを肩にかけ直し、人混みを掻き分け後を追いかける。
コバルトブルーの水中をゆくピカピカした青魚の群、珊瑚礁の中を縦横無尽に行き来するカラフルな魚たち。娘はカクレクマノミが気に入ったようで、熱心に見ていた。深海魚のゾーンは暗く神秘的だったが、娘が怖い怖いと早々に通り過ぎる。
「……あれ?」
暗くて視界が悪かったせいだろうか。深海魚のゾーンを抜けると旦那と娘の姿が見当たらない。
ぐるりと辺りを見回したが、それらしき人影が見付からなかった。追い付かなければ、と少し焦って旦那にラインをしようとスマホを取り出す。
通知が一件。
『楽しみにしてる』
無表情でメッセージを消去すると、私は旦那にラインする。
『11時半、イルカの水槽の前で落ち合いましょう。たまには娘とのデートを楽しんできて』
メッセージを送信してしまうと、歩調を緩めた。
そのまま通路を進み、シャチの水槽の前に出る。
「わぁ……!大きい!」
思わず声が出た。
この水族館が誇る一番大きな水槽の中で、身を翻しながら泳ぐシャチ。その水槽ですら窮屈そうに見えてしまう程の大きさは、見る人を圧巻する。自分が、本当にちっぽけな存在に思えてくる。
ひとしきりシャチを見た後、何気なく近くにあった説明パネルを見た。
『シャチはクジラの仲間です』
「へぇ!」
思わず声が出る。
説明書きを読んでいくと、更に興味深い事が書いてあった。
『シャチはハククジラに分類されます。
こちらの種類は、いわゆる「尖った歯」が生えており、魚やイカなどを噛んで食べます。4mよりも大きな種類をクジラ 、4mよりも小さな種類をイルカ という大まかな分類がされています。マッコウクジラやシャチといった有名なクジラの種類がこのハクジラに分類され、基本的に身体が小さい種類が多いです』
(シャチってクジラだったんだ……)
『クジラの祖先たちは強い肉食動物に食べられてしまうようなおとなしい動物で水辺に住み、水中を隠れ場所にしていたのではないかと言われています。そのような理由から、彼等は次第に生活の基盤を陸から水中に移していったのです。肺呼吸のままなのは、大くなった身体に効率良く酸素を送るため。そして、水中で身体が大きく進化してしまったため、肺呼吸ながら陸上での重力に耐え得る骨格を失い、陸上で生きる事ができなくなってしまったのです』
私は再び水槽を見る。
時々水面に上昇しては、潮を吹き酸素を取り入れるシャチ。見上げた水面は照明に照らされてゆらゆらと光り、その光は屈折を繰り返しながら私の顔をぼんやりと照らした。
私はクジラ。
ふと、そう思った。
ずっと、男性とのお付き合いに不自由する事は無かった。
皆一様に私を可愛いと褒め称え、愛し、何でも与えてくれた。しかし、容姿は次第に衰える。私は容姿が衰え、愛情が薄れていくのが恐ろしかった。だから私は、私自身を愛してくれる人を望んだのだ。どんな時も、変わらぬ愛情を注いでくれる人を。それが今の旦那だった。
私は海に入った。
追いかけてくる者はもういない。ここはとても気持ちがいい。安定している。私の生きる場所はここだ、そう、思った。
でも、私は肺呼吸しか出来ない。
10日11時、いつもの場所で。
私は水面に出て大きく息を吐き出し、息を吸う。
彼はどんな風に私を抱くのだろう。
沸いた血が全身を駆け巡り、身体が熱くなる。
海に適応した身体は陸上で生きることが出来ないのに、私は時々水面に出て呼吸しなくては生きていけない。
スマホを取り出す。
『私も、楽しみにしてる』
そう返信すると、私は再び人混みの中に紛れ込んでいった。
おわり
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