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クールガールは断れない
好きなマンガの新刊を買った。帰宅後はこれをじっくり読んだ後、録画してあったアニメを、酒を飲みながら視聴する。甘くないゼリーもそろそろ期限だから、そのときに食べようか。
泉は仕事からの帰り道、この後の過ごし方を考えるのが好きだ。ひとりきりのアパートの一室。でもそれは泉にとって寂しいものでなく、むしろ安心できる空間だ。
そう思っていたのだが――。
「何か落ちてますね?」
大きな布の固まりを見つけた。それは小さく動いていて、何か音を発している気がする。
人が倒れているのだ。
周囲を見回したが、他に人はいない。泉は倒れた人に駆けよった。
帰宅後――。
泉は予定通り、買ったばかりのマンガを開く。前回の発売からずっと展開が気になっていたのだ。泉は胸を躍らせながらページをめくる。
しかし。
「イッズーミ。何読んでるデース?」
明るい声が後ろから飛んできた。
視界に入ったのは金色のロングヘア。続いて、ぱっちりとした青い目。
「あんた、もう平気なんですか」
「泉のお陰で元気になりマーシタ。日本人、やっぱりいい人デース!」
この金髪美女は、先ほど泉が道端で拾った女だ。
どうやら彼女は財布を落とし、お腹が空いて倒れていたらしい。泉が夕食を食べさせてあげたところ、彼女は泉を恩人と見なし、懐いた。
「そろそろ帰らなくていいんですか?」
「ワッターシ、日本で借りてるアパートありマース。でも、大家さんと喧嘩して、帰りづらいのデース」
「はあ」
「でもいいデース。親切な泉がいますから」
金髪の女は泉に背後から抱きついた。泉は腕で彼女の脇腹をつつき、離せと合図する。しかし金髪美女はむしろ絡みつく力を強くした。
「あれ、何か酒臭い」
「泉のワイン、少し飲みマーシタ。おいしかったデース」
いや、おいしかったじゃねえよ。勝手に飲むな。
というかそれ、あたしが推しキャラの誕生日に開けようとしてたやつなんですが。
泉はそのような感情をこめて睨んだが、金髪美女はてへっと舌を出すだけだ。
泉はわざとらしく音を立てて単行本を閉じる。
見知らぬ人を助けたら懐かれる、なんてまるでマンガやアニメの冒頭だ。
でもフィクションと違うのは、彼女の正体が全然分からないこと。
マンガであれば、実はスパイとか、宇宙人とか、正体が早々に明示される。しかし彼女は謎のまま。
3時間かけてようやく分かったのは、名前がキャサリンということくらい……。
「泉はベッドで寝てくだサーイ。ワッターシ、床で大丈夫デース」
「え、うちで寝るんですか」
「迷惑はかけないデース」
すでに迷惑なんですが?
いつもは沸かさない風呂を勝手に張られたし……。
泉はぐっと唾を飲みこむ。そして、渾身の睨みをきかせて言った。
「……悪いけど帰ってくれないですか。正直、迷惑なんですよ」
泉は目つきがよくない。だからこうやって威圧的な態度を取れば、大抵の相手は怯む。……はずだ。
しかし今回、その作戦は通じなかった。キャサリンはすでに寝息を立てていた。もちろん、勝手に敷いた布団で。
泉は肩を落とした。
「あたしはいつもこうだ」
考えてみれば、夜中に女性を追いだすのは酷だ。だから、明日の朝に出ていってもらおう。泉はそう考えた。
そして翌朝。
キャサリンは朝食をしっかり食べた上、食後のデザートにポテトチップスを勝手に食べはじめた。
今日は爽やかな初夏の休日となるはずが、朝から気分最悪だった。酷暑の日の朝のほうが、爽快な気分になれただろう。
「あんた、今日こそ出ていって……」
泉はそう言いつつも、キャサリンの背中に向けて伸ばした手を下ろした。
泉は自己主張に失敗すると、二度目の主張を行う気力をなくしがちだ。案外、ほだされやすい女なのだ。
泉は黙ってサンダルを引っかけ、ドアを開ける。
「ワーオ、泉。どこ行くデースカ?」
「見ての通り、ゴミ捨てですよ」
「ワッターシ、手伝いマース」
「じゃ……あたしゴミ持つんで、あんたはこれ」
「バケツとデッキブラシ?」
ゴミ捨て場に着く。燃えるゴミの入った袋がいくつか並んでいる。
だがその中にひとつだけ、缶やペットボトルが透けている袋があった。
泉はその袋を持ちあげると、中からジュースがこぼれてきた。
泉はキャサリンからデッキブラシを受けとり、黙って掃除しはじめる。
すると、ちょうどゴミを捨てに来た近所の人が、泉に向かって怒声を放つ。
「ちょっと。燃えるゴミの日に缶を捨てないでって、何度言ったら分かるの」
「あー……すみません」
「ゴミ捨て場もこんなに汚して。掃除するくらいなら、最初から汚すような捨て方しないでよ」
「へへ……すみません」
ご近所さんは自分のゴミを投げすて、足を踏み鳴らしながら帰っていった。
その様子を見ていたキャサリンは首を振る。
「あの人、勘違いしてマース。泉はマナー守ってマース」
キャサリンは追いかけて抗議しようとする。
だが泉はキャサリンの肩を掴んだ。
「これたぶん、あたしの隣の部屋の人のゴミですよ。同じアパートって意味じゃ、他の人から見たら変わんないですよ」
「だからって」
「掃除終わったんで帰りましょ。あんた、ネトフリで映画観てる途中だったでしょ」
あたしに無断で。そう付け加えるか迷っていたが、キャサリンはニヤッと笑った。
「映画より、やるべきことありマース」
アパートに戻ると、キャサリンは泉の部屋でなく、その隣に向かった。
キャサリンがチャイムを何度も鳴らすと、気だるげな表情の女が出てきた。
キャサリンはその女に、回収したばかりのゴミを突きだした。
「これ、忘れ物デース!」
「は?」
「ユーがゴミの日を間違えたから、親切に持ってきたデース。日本は親切心の国デスので!」
「え、迷惑なんだけど」
「迷惑はこっちデース。ユーの汚したゴミ捨て場、掃除したの泉デース」
「勝手に掃除したんでしょ? それで文句言われんのは意味分かんないんだけど」
「ルール守らない人がノンノン! デース」
「え、何。泉さん、この人は誰?」
泉はへらへらと笑った。
「さ、さあ。へへ……」
それを聞きたいのは泉である。どこの誰か、結局知らない。
隣室の女はあからさまにため息を吐き、自分の爪を見ながら、変に間延びした声で言った。
「っていうかさーぁ。推しが出てるドラマ、観てる途中なんだけどーぉ。邪魔だから帰ってくれなーぁい?」
彼女の気だるげな話し方は、泉の気に障った。しかし泉は、その不快感を飲みこんだ。
何を言っても無駄な相手に、できることは何もない。
バタン、と大きな音がして、隣室のドアが閉まった。直後、賑やかな音声が流れる。隣室の女が、爆音でドラマを見始めたようだ。
泉は卑屈な笑い声を上げる。
「ゴミ問題の後は騒音トラブルですか」
泉の部屋に戻っても、キャサリンはまだプリプリ怒っていた。
「隣の女、ムカつくデース!」
「まあ、まあ。映画でも観て忘れてください」
「泉はこのままでいいデスカ。利用されたままデースヨ」
「いつものことなんで」
「あの女に泉の気持ち教えてやりたいデース!」
そう言ってキャサリンは窓を開け、隣室の女のベランダを覗きこむ。泉は、キャサリンが隣室のベランダをゴミで汚すところを想像した。
目には目を、なんていうのは時代錯誤だ。問題解決は対話によって行うべきだ。
なんて……。
「あたしには無理な話ですけどね」
「何か言いマーシタ?」
「別に」
「言いたいこと言わないの、日本人の悪い癖デース」
キャサリンは、柵から身を乗りだすようにして隣室を覗きこむ。泉はキャサリンの長い金髪を見つめながら呟いた。
「キャサリン。あんた……誰なんですか」
「ン?」
「あたし、あんたのこと何も知らないです。何で日本にいるのか。何であたしに構うのか……」
正直、泉にとってはご近所トラブルより、キャサリンの存在のほうが気になっていた。
知らない人が家にいたら誰だって嫌に決まっている。ひとりが好きな泉にとっては、なおさら。
でもキャサリンを拒む言葉は口から出なかった。
キャサリンは振りかえる。
傷ついたような、寂しそうな表情をしている。
泉は顔を逸らした。何も言えない。そんな自分が嫌になる。泉は自分の影を見つめることしかできずにいた。
そのとき、隣室から窓を開ける音がした。
ふたりは部屋同士を隔てる仕切りから顔を出し、隣室の様子を伺う。
隣室の女はベランダに姿を現した。
彼女が手に持ったスマホからは、ドラマの音声が流れている。隣室の女はうっとりと頬を緩めた。
「はーぁ。やっぱり推し、カッコいいよーぉ」
隣室の女は画面を注視しつつも、セリフの合間にベランダの花へ水をあげている。
「ドラマで推しの家に置かれてる花、絶対これだよねーぇ。苦労して探した甲斐あったよーぉ。これで推しと……一心同体!」
隣室の女は頬に手を当て、身体をくねらせる。よっぽどその俳優が好きらしい。
だが。キャサリンがガタッと音を立てたせいで、隣室の女の表情は一気に険しくなった。
「ちょっと、盗み聞き? 感じ悪いんだけどーぉ」
「感じ悪いのはそっちデース。泉に謝るデース!」
「あんたは関係なくなーぁい?」
「泉はワッターシの恩人デース」
「恩人?」
「昨日助けてもらいマーシタ」
「それだけ? なら他人じゃん」
キャサリンはぐっと息を飲み、泉のほうを振りかえる。
泉は黙って目を逸らす。隣室の女の言う通りだ。泉はキャサリンのことを何もしらない。
「ワッターシは泉の、友だち……」
キャサリンは少し間があったあと、こう続けた。
「友だちに……なりたい人デース」
泉はぴく、と肩を揺らした。
「泉、とても優しいデース。見知らぬワッターシに、とても親切にしてくれマーシタ。だからワッターシ、泉にお礼したいデース。だから……トラブルを解決してあげたくて……」
キャサリンの声がどんどん小さくなっていく。自信満々に見えたキャサリンが、弱々しく肩を丸めている。
泉はキャサリンの言葉を頭の中で考える。
友だちになりたい? あたしなんかと?
あたしみたいに暗くて、人嫌いで、面倒な女と?
泉は震える唇をそっと開いた。
「あの……お隣さん」
隣室の女は刺々しく返す。
「何?」
「あんたが観てるドラマ、パンプキン日和、でしたっけ?」
「だったら何―ぃ?」
「あたしも少しドラマ観たんです。原作マンガ読んだことあったんで」
「ふぅん」
「あんたの推してる俳優って、主人公の役ですよね」
「それが何」
「僕は心が綺麗な人が好きだ、みたいなセリフありましたよね」
「あった、けど」
「近所のゴミ捨て場を雑に扱うのって、心が綺麗とは、ちょっと違うんじゃないですかね。そういうのを丁寧にやれば、ほら、推しにも好かれるんじゃ……ないですかね……」
へへへ、と泉は最後に笑った。偉そうに言っている自分が、なんだか滑稽に見えたのだ。
隣室の女は頬をもぞもぞと動かす。そして、勢いよく窓を閉めた。かと思ったら、再び開け、こちらの部屋に手を伸ばしてきた。
「ん」
「何ですか」
「さっきのゴミ。自分で分別して出すから、返してって言ってるのーぉ!」
妙に間延びした、それでいて棘のある、何だか嫌な言い方だった。
泉は先ほど回収したゴミを、黙って隣室の女に渡した。
お互いの部屋が窓を閉める。
その途端、キャサリンは大きく息を吐きながら、その場にしゃがみこんだ。
「アー…………。緊張したデース!」
「何であんたがドキドキしてんですか」
「そりゃするデース。知らない人に喧嘩売ってしまったデース。だから、こんなに心臓ばくばくデース」
そう言ってキャサリンは泉の手を、自分の胸元に持ってこようとした。だが泉は直前に彼女の手から逃れた。
泉はキョドキョドしながらお礼を言う。
「えっと、まあ。ありがとうございました」
「サンキューを言うのはこっちデース」
「とりあえず映画でも観ます?」
「イエース。ド派手なアクションムービー観るデース!」
「音量は抑えめでお願いしますよ」
「そうだ。今日のランチはワッターシが作りマース。肉厚ハンバーガー、楽しみにしててクダサーイ」
「あんた、昼まで居座るつもりですか」
「細かいことは後デースヨ。コーラとポップコーン、半分ずつにするデース」
「だからうちの戸棚を勝手に開けるんじゃねえです……!」
そして。その日の夜。
隣で布団を蹴っ飛ばすキャサリンを見ながら、泉は思った。
「……って。何で今日もうちに泊ってるんですか」
そして、それよりも疑問に思っていることがある。
「っていうか結局……あんたどこの誰なんですかー!」
その疑問は今夜も解決しなかった。
泉の現実は、マンガよりも不条理だ。
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