22人が本棚に入れています
本棚に追加
帰還
誰かが先触れをしてくれていたのか、舟から降りると堤の上から声が掛かった。
「お帰りぃぃぃ~ 待ってたよぉぉぉ~」
咲良を抱きかかえた久秀が顔をあげると、お嶋とお市、そして美千代と彩音が手を振っている。
「ただいまぁ!」
久秀が咲良を降ろすとすぐに新之助が駆け寄ってくる。
すでに咲良とほとんど背丈が変わらないその姿に、胸にこみ上げるものがあった。
先頭で堤を駆けあがったのは権左で、何やら柳屋の使用人たちに話をしている。
驚いた顔で駆け出すのを見送り、今度は待ちかねている女たちに声を掛けた。
「なんですって!」
そう叫んだお市が、着物の裾を捲り上げて駆け下りてくる。
「お市!」
「義さま!」
宇随に肩を貸している研吾を跳ね飛ばす勢いで、宇随に抱きつくお市の顔は、涙でくしゃくしゃになっていた。
「無事に戻ったよ、お市。師の仇も討った」
「ああ……義さま……義さまぁぁぁぁ」
お嶋と美千代も降りてきて、それぞれに無事に戻ったことを喜び合った。
三河屋と駒井が近寄ってきて、お嶋と挨拶を交わしているのを見た久秀が、慌てて二人を紹介している。
「すまん、お嶋さん。こちらは三河屋さんといって今回の件で大変お世話になった方だ。そしてこちらは……」
身分を明かすべきかどうか迷った久秀が駒井の顔を見た。
「私はこちらの三河屋さんの友人で、駒井と申します。以後よろしくお願いします」
お嶋が慌てて頭を下げた。
「久さんのお知り合いのお友達なら、私たちにとってもお友達ですよ。お風呂も沸いていますし、食事の用意もしております。まずはゆっくりなさってくださいまし」
「ありがたくご相伴に預かりますよ。いやはや、年は取りたくないものですなぁ。見ていただけなのに本当に疲れました。しかしめったにお目に掛れないほどの仇討ちに立ち会うことができました。いやぁ、今日まで息をしてきて良かったと思いましたよ」
柳屋の使用人に案内され、三河屋と駒井が先に歩き出した。
「咲良さん、ああ……生きていたんだね……本当に良かった」
お嶋が涙をポロポロと溢して咲良に抱きついた。
「お嶋さん、ご心配をお掛けしましたが、無事に終わりました」
「ああ、心配はしたさ。本当によく帰ってきたね……本当に……ああそうだ、もうじき蘭方医の井村先生が来てくださるからね。よく頑張ったね。偉かったよ」
ビショビショと泣き続けるお嶋の後ろから柴田たちが声を掛けた。
「どうだ? 羨ましいか?」
柴田研吾が右に妻を、左に娘を抱き寄せて自慢げな顔を向けている。
「ああ、羨ましいよ。奥さん、そして彩音さん。大切なご主人をお借りして申し訳なかったです。まあ、無事に戻ってきましたので勘弁してください」
美千代がニコッと笑い、研吾の顔を見上げた。
彩音が新之助に話しかける。
「新之助様、本懐成就おめでとう存じます」
新之助が真っ赤な顔で咲良から少し離れた。
「ありがとうございます。これも柴田先生のご指導のお陰です。それに彩音殿が何度も私の相手をして下さったからです。心からお礼を申し上げ……」
そこまで言った新之助の体がふらっと傾いだ。
「新之助さま?」
お彩音が不思議そうな声を出したその横から、久秀と研吾がほぼ同時に手を伸ばした。
咲良が驚いて駆け寄ろうとするのを手で制した久秀が、優しい笑顔を向ける。
「やっと緊張の糸が解れたのでしょう。初めて人に剣を向けた後は、こうなることが多いのです。それだけ真剣だったということですから、心配はいりません」
「そうなのですか?」
咲良が泣きそうな顔でそう言うと、久秀がゆっくりと頷いた。
「新之助はまだ良い方ですよ。俺も研吾もこういう場合は、冷たい水を頭からぶっかけられて放置でしたから。ねえ? 宇随さん」
まだしがみついているお市の背を撫でていた宇随が顔だけ向けた。
「そんな昔のことなど覚えておらんさ」
久秀と研吾が肩を竦めた。
「それより俺は咲良が心配だ。酷く殴られたのだね、可哀そうに。やったのは誰だ?」
「五十嵐喜之助という男です。正晴がお朝さんを……」
「あいつか……お朝ちゃんは医者に連れて行ってもらっているよ」
なかなか帰ってこない久秀たちを迎えに来た権左が口を開いた。
「お朝さんは蘭方医の井村先生のところで治療をしています。意識ははっきりしていますので大丈夫ですよ。ただ顔の傷は……」
咲良が悲痛な表情を浮かべた。
久秀が咲良を再び抱き上げ歩き出した。
自分で歩けると言い張る咲良をしっかりと抱いた久秀が柳屋の暖簾をくぐると、三河屋と駒井がちゃっかり風呂上がりの顔で待っている。
「さすがに仕事が早いですねぇ」
お嶋がお盆に徳利を何本も載せてパタパタと行き来していた。
「さあ順番にお風呂に入ってくださいな。ああ……咲良さんは後だよ。先に先生に診てもらうからね」
宇随と柴田が風呂場に向かうと、お市と美千代もお嶋の手伝いに行ってしまった。
風呂場から大きな声で呼ばれた新之助も行き、客間には三河屋と駒井と久秀と咲良だけだ。
柳屋と染め抜かれた揃いの浴衣を着ている幕臣二人が、咲良の前に正座する。
「咲良さん、あなたの勇気には心から感服しましたよ。男でもなかなか出来るものじゃない」
咲良が恥ずかしそうに俯いた。
三河屋が小さく息を吐いてから口を開いた。
「奴らに拉致されたところから話してもらえますかな?」
咲良は頷いたが、久秀が声を荒げた。
「今日の今日でその話は些か配慮に欠けませんか? 気丈な顔をしているけれど相当恐ろしい目にあったんだ。明日とか明後日とかでもいいでしょう」
駒井が一度唇を引き結んでから久秀を見る。
「安藤殿の言っているのが正しい。しかし、我らも少々急がねばならない。山名将全は外様の小大名といえど、妹二人を大奥に行かせているのです。なかなかに発言力があることはご存じでしょう?」
久秀が頷いた。
「ええ、もちろん存じています。その二人のために財政を圧迫していたのですから。三沢様も国許でご苦労をなさっていましたよ。でもね、咲良は……」
久秀の袖を咲良が引いた。
「久秀様。私は大丈夫です」
「咲良?」
丁度その時、玄関から医者の到着を知らせる声が聞こえた。
三河屋が駒井の顔を見る。
「診察が先ですね。我々はごちになって待ちましょう。むしろ全員が揃った方が良いかもしれませんぞ」
お嶋が酒と肴を運び込み、お市と一緒に酌をした。
風呂から出た宇随と研吾もやって来て宴席が始まる。
「さあさあ、新之助さんもこちらへどうぞ」
お嶋が呼ぶと、元結を切って髪を洗った新之助が恥ずかしそうに座った。
最初のコメントを投稿しよう!