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頼まれごと
太夫たちの間での評判は相変わらずで、注文した弁当の数が多いところへ久秀が来るという噂まで出回り、柳屋は嬉しい悲鳴をあげていた。
「しかし久さん、さすがだねぇ。お陰でこちとらほくほくだよ」
「お嶋さんには妻子共々お世話になっているから、お役に立てているのなら良いのだが、俺は何もしてないよ? むしろ耳掃除をしてくれたり膝枕をしてくれたり、至れり尽くせりさ」
「肥後屋の塩梅はどうなのさ。まあ注文は続いているから気に入っては貰えているのだろうけれど」
「うん、みんな褒めているよ。でも胡蝶太夫の顔はなかなか拝めないんだよね。この前チラッと座敷を覗きに来たけれど、自分の弁当は禿に持たせて自室で食べているみたいだ」
「まあてっぺんともなればそんなもんさ。三朝太夫が特別だったんだろうね。そういえば三朝太夫……あっ、今はお朝さんだ。ちょくちょく来るのだって?」
「咲良のところにでしょ? 俺が帰る頃にはもういないから顔は見れていないけれど、咲良が言うにはおひたしとか煮つけとかの作り方を習っているみたいだね」
「へぇ……ちゃんとお妾さんやってるんだねぇ。随分嫌がっていたと聞いたから、大きな顔をしているのだと思っていたよ」
「そうなの? なんだかとても楽しそうだって聞いたよ。まあ、聞くと見るとじゃ大違いなんて良くある話だしね」
お嶋がニカッと笑った。
「そういえばさぁ、来月の始めにお朝さんのいる別宅で何やら集まりがあるらしくてね、わざわざうちに仕出しを頼んでくれたんだよ」
久秀の眉がぴくっと動いた。
「へえ、そうなんだ。律儀なお人だね」
「それでね、お酌の手伝いに誰か寄こしてほしいって言われてねぇ。でもうちは仕出し屋だろ?当てが無いから探しているんだよ」
「お嶋さんが行けばいいんじゃない? まだまだ現役でしょ?」
「あたしみたいな大年増に注がれたんじゃあ、旨い酒も不味くなるってもんさ。久さんの知り合いで誰かいないかい?」
「俺の知り合い? 俺が声を掛けて集まるのは腕自慢の剣客だけだよ。まあ気にかけておくけれど、あまり当てにしないでね。じゃあ今日はもう帰るよ」
「ああ、ご苦労さんだったね。明日もよろしく頼むよ。咲良さんと新ちゃんによろしく伝えとくれ」
手を振って柳屋を出た久秀は、帰る道すがら考えた。
お朝の家に集まるのが抜け荷の一味だとしたら、千載一隅の機会だと言える。
取引をする日時や場所さえわかれば……
「いやいやいや、だめだめだめ」
ふと咲良を思い浮かべた久秀はブンブンと頭を振って、その考えを追い出した。
「お帰りなさいませ」
旅から戻った日に初めて唇を合わせた二人だったが、それ以上進むでもなく日々を過ごしていた。
「ただいま。咲良もおつかれさま」
「お湯の準備はできておりますよ。今日は旦那様のお好きな湯豆腐です」
「おっ! いいねぇ。ではすぐに入ってくるよ」
ニンマリと笑った久秀が座敷に上がると、新之助の声がした。
「お帰りなさいませ、父上。お風呂ですか?」
「ああ、新之助はもう入ったのか?」
「いえ、私は後ほど母上と入ることになっています」
締めかけた襖が勢いよく開いた。
咲良の背中に向かって久秀が叫ぶ。
「どういうことだ! なぜ新之助が咲良と一緒に風呂に……俺だって……俺だって……」
咲良が驚いた顔で振り向くと、慌てた新之助が久秀に言った。
「今日は髪を切っていただくことになっておりますので」
「髪? ああそうか……うん、髪ね。ははは……」
不思議そうに小首を傾げる新之助の頭をワシャワシャと撫でまわし、久秀は湯殿に向かった。
たっぷりの湯に肩まで浸かりながら、お嶋から聞いた話を思い出す。
「ああ、本当に女装できねえかなぁ……」
無茶な事を考えていると、外から咲良の声が掛かる。
「旦那様、お湯加減はいかがでしょうか」
「うん、丁度良いよ。ねえ、咲良も一緒に入らない?」
久秀としては軽い冗談のつもりだったのだろうが、外で聞いていた咲良にはそうは聞こえなかったようだ。
「いけず!」
パタパタと足音が聞こえて咲良が駆け去ってしまう。
「やべぇ……」
久秀は顔の半分まで湯に沈んでじっとほとぼりが冷めるのを待った。
「父上? あまり長いので母上が心配しておられますよ?」
「ああ、すまん。すぐに上がる」
「夕飯の支度は整っております」
「わかった」
怒られる前に謝ろうと、神妙な顔で現れた久秀を真顔で迎えた咲良。
「ごめんなさい。許してください。調子に乗りました。もうしません。多分?」
プイっと横を向く咲良をチラチラ見ながら、膳の前に座る。
新之助が心配そうに言った。
「どうされたのですか? 父上? 浮気でもしたのですか?」
口に含んでいた酒を盛大に吹き出した久秀が、新之助の顔をまじまじと見た。
「お前! そんな言葉をどこで覚えてきた?」
「父上……浮気はいけません。母上にちゃんと謝ってください」
「いや、だから」
笑いを嚙み殺している咲良に助け舟を出す気配はない。
「違う! 俺は浮気などしていない! 俺が好きなのは咲良だけだ! 咲良以外は南瓜か茄子にしか見えない! だいたい咲良ほどの女はいかに江戸広しといえど……」
ぎゃんぎゃん喚く久秀の前で、しれっと香の物をポリポリと食む新之助。
延々とのろけを言い立てる久秀と、呆れた顔でそれを見ている咲良。
食べ終えた新之助は、先に寝ると言ってさっさと部屋に戻ってしまった。
「あのなぁ、今日お嶋さんから聞いたのだけれど」
新之助が眠った後、台所の板場でちびちびと酒を飲みながら久秀が口を開いた。
「もしかしてお朝さんからの頼まれごとのことですか?」
「うん、咲良も聞いたの?」
「はい。ここで伺いました。私が行きますとお返事しましたよ」
「え! いや、それはダメだ。もしも……」
「ええ、もしも正晴が来たら危ないということでしょう?」
「そうだよ。それに他にもくるかもしれない。絶対にダメだ」
「でも、その『他にも来るかもしれない人』を知りたいのではないのですか?」
「そりゃそうだけれど」
「柳屋の下働きということにしてもらうようにお願いしました。旦那様のお名前は出しません。もしも武家の出と知られたら実家の吉田を名乗ります。お朝さんにもお嶋さんにも話を会わせていただくよう申しました」
「いや、そういう問題ではなくてだなぁ。要するに俺は咲良を危険な目にあわせたくない」
「大事の他は全て小事でございましょう?」
「ああ……あんなこと言うんじゃなかったなぁ……」
「お嶋さんも一緒に行くのです。心配ないですよ」
「お嶋も? あいつ……カマ掛けやがったな。なあ咲良、絶対に無茶はしない?」
「はい」
「危ないと思ったらすぐに逃げろよ?」
「はい」
「ああ……心配だ……」
押し切られた形になってしまった久秀は、朝まで何度も寝返りを打つ羽目になった。
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