大量注文

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大量注文

 その日、久秀と共に柳屋に戻ったお嶋は驚きの声をあげた。 「なんだい! この弁当の数は!」  番頭は慌てて弁当箱の手持ち数を確認するよう丁稚を飛ばし、板場に走って行った。 「そんなに凄いの?」 「肥後屋の全員分だってさ。太夫や禿はもちろん、格子や裏方までだと二百は超えるよ」 「二百? なんだそれ……」  それには答えずお嶋も板場に駆け出していく。  残った久秀は大量注文の裏を考えていた。  あの符丁は確かに肥後藩が使う細川九曜に酷似している。  しかし違うのだ。  その理由がわからない。 「ああ、そういうことか。なるほどね……」  久秀が勝手にお嶋の急須で茶を淹れていると、裏口で自分を呼ぶ声がした。  ぞろっと立ち上がり障子を開ける。 「あれ? お朝ちゃんじゃないか。昨日は咲良が世話になったね」  お朝が障子の桟に腰を掛けて話し始めた。 「世話になったのはこっちの方だよ。男衆が相手だったから久さんもやきもきしたんじゃないかい?」 「ああ、本当にやきもきした。俺は執着心が薄いのだと思っていたが、随分な悋気持ちなのだと実感したさ」 「相変わらずの愛妻家だ。まあそんなところが堪らないんだけれどね。そういうことならやっぱり耳に入れておいた方がいいね。実はね……」  お朝が久秀に語ったのは、昨夜の宴会の様子だった。  咲良は主に台所で燗をつけていたのだが、厠にたった若旦那に目をつけられて、座敷に呼ばれたのだ。  咲良は嫌な顔もせず、全員に酌をして回ったのだが、その時の『若様』と『若旦那さん』の目つきが異常だったと言う。 「異常ってのは? どういうことかな?」 「何て言うのかねぇ……舐めまわすような? まるで蛇のような目つきでさぁ。あたしとお嶋さんはこういう商売をしてただろ? あんな目をした男は飽きるほど見てきたから慣れているけれど、咲良さんは素人だ。それに久さんの奥さんだろ? 何かあったら死んでも詫びきれないと思ってさ。咲良さんは気付いていないと思うし、お嶋さんは咲良さんと交代で台所に行ったから見ていない。あたしが伝えなくちゃって思ってね」 「なるほど。そりゃ良く知らせてくれた。ありがとうね、お朝ちゃん。でもこれからも何度かあるのだろう? 咲良もお嶋さんも手伝う気満々だったぜ?」 「うん……あたし一人じゃどうしようもないから来てくれると本当に助かるのだけれど……ねえ、久さん。あたしが絶対に守るからさぁ、咲良さんを疑うようなことをしないでおくれ。あんた達夫婦は私たちのような廓女の希望の星なんだからさ」 「希望の星? そりゃ買いかぶり過ぎだよ。俺はいつだって咲良の尻に敷かれっぱなしだ。まあその尻が愛おしくて仕方がないのだけれどね。惚れているのは俺ばかりでね、咲良はあっさりしたもんさ」 「ばかだねぇ、久さん。咲良さんはあんたに惚れ抜いているよ。目を見りゃわかりそうなものだ。きっと咲良さんは久さんの為なら命も惜しくないって考えているんじゃないかい?」 「ははは……だと良いけれどね。でも命は惜しんで欲しいなぁ、咲良が死んだらたぶん俺は狂ってしまう」 「はいはい、ごちそうさまでござんす。じゃあ伝えたからね。あたしは今から咲良さんに仕立てを頼みに行くんだよ。咲良さんの仕立ては人気が高いからねぇ、今から夏物を頼んでおかなくちゃいけないほどさ」 「そうなの? その合間に新之助の送迎をして家事一切をやってるってことか……」 「久さん、何があったのか知らないけれど、咲良さんを守っておやりよ」  久秀は満面の笑みを浮かべて頷いた。  手を振って出て行くお朝と入れ違いにお嶋が部屋に戻ってきた。  結局、手持ちの弁当箱では全然たりず、妓たち以外の弁当は大箱に詰めて取り分けてもらうことで話をつけたらしい。 「儲けは減るけれど仕方がない。注文を貰って捌けないなんて柳屋の名折れだからね」 「いつ頃届けるの? その数じゃあ総出だね」 「出来次第ってことになっているよ。あと一刻は掛かるだろうね。もしこういうのが続くなら料理人を増やさないといけない」 「俺やろうか? 料理はできないけれど野菜くらいは洗えるし、そもそもそれで雇ってもらったんだもの」 「ダメだよ。あんたはうちの大看板だ。そっちで働いておくれ。ああ、でも久さんが下ごしらえをした弁当って触れ込みなら値段が上がりそうだねぇ……一日限定二十食ってことで営業掛けてみようかな」 「俺が野菜を洗っただけで値段が上がるわけがないだろう? バカなこと言ってないで茶でも淹れてくれよ」 「はいはい、まったくうちの旦那より偉そうな使用人だ」  笑いながらお嶋が茶を淹れかえた。  その仕草を見ながら久秀は、先ほどのお朝の言葉を思い出している。  若旦那も気になるが、正晴に目をつけられたとしたら……  久秀は思わず腰に刺した脇差を握りしめていた。  久秀以外の従業員たちがバタバタと走り回っていたその頃、お朝と咲良は漬物と茶を前にしておしゃべりに夢中だった。 「へぇ……来たばかりの頃は苦労しなさったのだねぇ」 「ええそれはもう。住むところも無くて旦那様のご友人のところにご厄介になっていたのですよ。本当に良い方々で、不自由なく過ごさせてもらいましたが、新之助の着替えもない状態でした」  咲良は彩音の浴衣を嫌がった新之助の泣き顔を思い出した。 「それで柳屋さんかい? あのお嶋ってお人は女にしておくのが惜しいほどの気風の良さだ。良い人と知り合ったねぇ」 「ええ、それがねぇ。お嶋さんから声を掛けられたのだそうですよ、旦那様が」 「ははは! 久さんったらお嶋さんに袖を引かれたのかい? そりゃいいや」 「そうなんですって。でも今では本当の姉弟のように仲良くなって。人の縁というのは不思議なものですね」 「そうだねぇ。あたしは親に叩き売られた口だけれど、咲良さんは違うのだろう? たまには国に帰るのかい?」 「いえ……私たちは……」 「もしかして、駆け落ち?」 「まあ、そのようなものです」 「やるねぇ、久さん。ますます惚れちまったよ」  咲良は困った顔をしながら漬物を口に運んだ。  一人で何かを納得したお朝が腰を上げる。 「では仕立てをよろしく頼みますよ。夏まででいいからね。それと、昨日のようなことがまたあったら、こっちもよろしく頼みます」 「はい、こちらこそよろしくお願いいたします」  外はまだ寒いというのに、足袋も履かずに下駄をつっかけているお朝の指先が赤く染まっている。  咲良は自分の足先を見て、冷たくなったこの指先を布団の中で久秀に添わせたら、どんな顔をするのだろうかと、できもしないことを想像して一人赤面していた。
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