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待っていた知らせ
あくる朝、念のため道場まで二人を送り届けた久秀は、昨日のことを柴田に話して夕方まで預かってほしいと頼んだ。
「頼まれるまでもない。必ず守ろう」
「あいつらどっちだと思う?」
「まだどちらとも言えんが、そのお朝という女……何を掴んだのだろうか」
「そこだよな……お朝は敵ではないと思う。そんな女じゃないし、旦那に惚れているわけでもないから庇うことも考えにくい。ああ……俺の体が二つあればなぁ」
「二つか……どうも謎かけのようで、何をしたいのか良く分からんな。もっとはっきり伝えてくれないかなぁ」
「どうやらお前も朴念仁のようだ」
不思議そうな顔をした柴田に、二人を頼むと念を押して柳屋に向かう。
雇われたのが件の権さんであれば、胡蝶の話に乗ろうと決めた。
「ああ、久さん。遅かったじゃないか。今日も来てるよ、弁当」
「おはよう。今日も肥後屋かい? 何個なの?」
「今日はさすがに半分だけど、それでも百だ。もちろん肥後屋だけじゃないからね、忙しくなるよ」
「そりゃ何よりじゃないか」
ニコッと笑ったお嶋が、ポンと手を打った。
「そうだ、紹介しておかなくちゃ。今日から入ってもらう岩本権左さんだよ」
そう言うとお嶋がその名を呼んだ。
現れたのは予想通り『板場の権さん』だったが、見事なほど浪人姿が板についている。
「今日からお世話になります。よろしく」
正座して軽く頭を下げる。
「こちらこそよろしく、権さん。安藤久秀という名だが、ここいらでは久さんと呼ばれているんだ。権さんもそう呼んでくれ」
島田でのことをお嶋にも話しておくべきか迷ったが、今は口を噤むことにした。
「久さんですか……なんとも人懐っこい名ですなぁ」
「権さんもなかなかだぜ?」
何かを言おうとしたお嶋だったが、板場から声がかかり慌てて去って行った。
二人だけになったことを確認した久秀が、権左に顔を向ける。
「なあ、権さん。お前さんたちは何者なんだい?」
権左は久秀の視線を正面から受けながら口を開いた。
「水戸藩浪人の岩本権左です。およしは抜け女忍で、二人旅をしていた時に拾ってくれたのが三良坂弥右衛門様ですよ」
久秀が顔を顰める。
「そういうのは良いからさぁ。腹を割ってくれないと俺もそういう態度に出るしかないぜ?」
「敵認定というわけですか……それは困りますね」
「俺はどっちでも良いんだけどね」
「敵ではないですよ。今のところはね」
「ふぅん。敵ではないが味方でもないというところか。水戸藩ねぇ……およしも水戸の?」
「ええ」
「なんだかなぁ。なんていうのかな、こう……気持ち悪いというか落ち着かないというか。まあいいさ。そういうことなら俺もそのように動くまでだ」
「そうそう、久さん。今日の弁当配達は時間をずらして欲しいということでしたよ。九つまでには欲しいと言っていました」
「それはお嶋さんに伝えたの?」
「ええ、おそらくは今伝わっている最中かと」
「ふぅん……いやぁ、本当に胡散臭いねぇ。理由を聞いても?」
「なんでも肥後屋で昼席があるとかで、胡蝶太夫も柳葉太夫も忙しいみたいです」
「昼席で大看板を二枚とも侍らせえるほどの大物が来るの? 金持ちだねぇ。で? 誰なの? そのお大尽は」
「さあ、そこまでは。いずれおよしからツナギがあるでしょう」
久秀が立ち上がる。
「そういうことなら板場は大わらわだ。ちょいと手伝ってこよう。お前さんも手を貸してやりな。事情はどうあれこの店の稼ぎで食いつないでいる立場だ。できることはしなけりゃな」
頷いて権左も立ち上がった。
納品が一刻も繰り上がったということで、お嶋が首に筋を立てて陣頭指揮をとっている。
料理人たちは大汗をかきながら煮炊きに忙しく、まだ洗えていない野菜が裏の井戸のところに置かれていた。
久秀たちは裏に回りザバザバと井戸水を汲み上げて、藁束で野菜を洗い始める。
「手慣れたものだねぇ。三堀屋でもやってたの?」
「ええ、一応『板場の権さん』でしたからね」
「大変だねぇ、いろいろと。それで権さん、柔術は水戸で?」
一瞬だけ動きを止めた権左が頷いた。
洗った端から料理人が野菜を持っていく。
ごしごしと牛蒡を洗いながら久秀が続けた。
「柔術だと剣の相手は不利じゃない?」
「そうですねぇ、でも懐に潜り込めばこちらの方が有利です。間合いを如何に早く詰められるかが勝負ですね」
「でもさぁ、長剣を封じられても利き手が空けば脇差という手もあるぜ?」
「両方の袖を押さえますから抜けませんよ。こちらは袖をつかむことで投げることも可能ですから」
「なるほどね。一度やって見せてよ。それにしてもなぜ柔術だったの?」
「父がその道でしたので」
「ああ、そういうことか。剣はどなたに?」
「剣は藩邸の道場で習いました」
「水戸といえば水府流か?」
「はい、師は北辰一刀流で水府流の設立に寄与された方ですよ。まあ中途半端なところで終わっていますが」
その言葉に返事をしようとしていた時、お嶋が久秀を探しに来た。
「まあまあ! お武家さん二人が牛蒡洗いとは、柳屋も偉くなったものだ。ほれ、久さん。急ぎ文が届いたよ」
お嶋が差し出したのは宇随からの手紙だった。
「おっ! 待ちかねてたんだ。ありがとう、お嶋さん」
手紙を手に少し離れた場所に移動した久秀が、おおっと声を出す。
丁寧に折りたたんで懐にして、井戸端に戻った久秀に権左が声を掛けた。
「嬉しそうな顔ですね」
「うん、待っていた手紙だったからね」
すべての野菜を洗え終えた二人は、お嶋の部屋の縁側に腰を掛けた。
気を利かした女中が茶を運んできて、久秀の顔を見て頬を赤らめている。
ふと見ると、日本堤下の桜の枝先が色づいていた。
「俺が死んだらきっと咲かぬまま枯れようとするのだろうな……咲かせてやりてぇなぁ」
久秀の独り言に顔を向けた権左だったが、その口が開くことは無かった。
「久さん、配達を頼むよ。今日は私も行くからね」
「ああ、助かるよ。今日は中には入らないつもりなんだ。ちょいと野暮用があってね」
「そりゃ女たちが悲しむねぇ」
そう言って笑いながら準備をするお嶋を目で追いながら、久秀が権左に言う。
「ではこの店の守りは頼んだぜ」
頷いて久秀を送り出した権左は、暫しの間そのまま空を見上げていた。
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