助け舟

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助け舟

 丁稚たちに弁当を運ばせながら、お嶋が久秀に話しかける。 「今日の弁当は胡蝶太夫の注文とは別に柳葉太夫からも来ているんだよ。まあこっちの数は少ないけれどね。あの符丁は柳葉太夫のことだろ? なんだか不安だよ」 「そうなの? そりゃ初注文じゃないか。俺は今日、大黒屋以外のところの配達をするから、俺のことを聞かれたら他所の見世に行っていると答えておいてくれ」 「そりゃそうだ。六つやそこらで柳屋の久さんに和ませてもらおうなんざ、片腹痛いってものだ」 「ははは! 三度目でやっと部屋に行くってか? そいつは良いや」  お嶋が急に真顔を向ける。 「久さん、とにかく気を付けておくれよ。咲良さんを一人にしないでやっとくれ。新ちゃんだってそうだ。あの二人は久さんを頼りにしているのだからね」 「うん、わかっている」  一番大口の肥後屋の弁当を任せ、他の数店分を引き受けた久秀が丁稚一人を連れて見世を出る。  それを二階の部屋から見ていた柳葉は、眉を顰めて舌打ちをした。 「おいおい、舌打ちなどはしたないぞ」 「あっ……申し訳ございません。安藤久秀が上がらなかったもので」 「え? 帰ったのか?」 「どうやら今日は他の見世に行くようです」 「そうか。きっと胡蝶のところに行くだろうと思っていたのに計算外だな。念のためにお前からも注文を入れさせたというのに。何か気取られたか?」 「いえ、それは無いかと。いつもより時間が早いので他の用事があったのかもしれません。胡蝶の客が昼席を設けるとかで、私も呼ばれていますので」 「おいおい、俺が来ているというのに抜けるのか?」 「申し訳ございませんが、もう買い切りの身分ではございませんので」 「仕方が無いな。三沢のやつが死んで、お前は亭主を亡くしたことになっているからなぁ。もっともあいつは名前だけだったが」 「ええ、ご同道なさってもすぐにお帰りになっていましたものねぇ」 「バカ真面目なんだよ。藩のためだと言えば悪事も目を瞑ったしな。便利な奴だったのに、アホが追い込みやがって」 「女も売っていたことを知られてしまったせいでしょう? 三沢様はご存じなかった?」 「それは建前さ。あのアホは三沢の女房が欲しかったんだよ。あいつはバカ真面目だと言っただろう? あまり汚いところを見せると手を引きかねん。黄金真珠だけでも引き入れるのに苦労したんだ。しかしバカなことをしたものだ。三沢の顔で引っ張っていた黄金真珠が手に入りにくくなってしまったんだからなぁ」 「良いじゃございませんか。今の商品は女でしょう?」 「時間はかかったが、なんとか予約を受けていた分は渡せる算段がついた。黄金真珠はもう終わりだ。今度からは女だけにするが、無理難題を吹っ掛けやがる」 「田舎に行けばいくらでも攫えましょうに」 「それが、あちらが言うには若けりゃ良いというものではないのだそうだ。年の頃なら二十歳から三十、田舎娘ではなく武家の女を御所望だ。値は吊り上がるがね」 「左様でございますか。でしたら廓の女はいかがです? 武家ではございませんが、それ相応の教養も作法も身につけておりますから、疑われることは無いのでは? 男の扱いには慣れておりますし」 「足抜けさせるのか?」 「それも良いですが、年季明けを狙うのも良いかと。年の頃なら二十七くらいでしょうから」 「なるほどのう。当てがあるのかね?」 「そこは蛇の道は蛇でございますよ、旦那様」  そう言うと柳葉太夫はその男にしなだれかかる。  少しして禿が呼びに来るまで二人は床で縺れ合っていた。  その頃久秀は柳屋に戻っている。 「あれ? 早いねえ久さん。女将さんはまだ戻ってないっていうのに」 「うん。今日は用があるんだよ。お嶋さんには伝えてあるから」 「そうかい。それにしてもあんたのお陰でこの柳屋も大繫盛だ。弁当を食った太夫たちが馴染み客に強請ってくれるお陰で、夜の仕出しも増えているんだもの。お陰で旦那さんが新しい料理人を雇ってくれたから、かえって楽になったくらいだよ」 「それはあなた達の腕が良いからだよ。少しでも楽になったのなら何よりだ」 「そう言ってくれるとありがたいねぇ。おおそうだ、これを持ってお帰り。残り物で悪いが鮪の漬けと揚げ出し茄子だ。恋女房とさしつさされつ……妬けるねえ」  久秀が嬉しそうな顔をした。 「そいつはありがたい。遠慮なくゴチになろう。ところで権さんは?」 「ああ、あの浪人さんかい? この辺りを知りたいからって出掛けなさったよ」 「ふぅん……じゃあ俺はお先に失礼するよ」  料理が乗った皿を受け取り、久秀は家に戻った。  八つまではあと半刻ある。  人の気配がないことを確認し、裏口から入り玄関のつっかい棒を外しておいた。  流しの横に持って帰った皿を置き、咲良の部屋でゴロンと横になる。 「ん? 来たか?」  玄関が開く音がして、数人の足音が聞こえた。 「三人か。女一人に大仰なことだ」  じっと気配を殺していると、隣の板場で声がした。  なんと大胆な押し込みだなと思いながら、そのまま聞き耳を立てる。 「咲良さん、お留守ですか? 富士屋です。咲良さん?」  久秀はぎょっとした。  富士屋の大番頭自らが来るとは予想していなかったからだが、面が割れている自分がいるのは絶対に拙い。  どうしたものかと考えていると、玄関でまた音がした。 「ん? 貴殿らはどなたかな?」  権左の声だ。  どたどたと立ち上がる音がして、富士屋又造が慌てて捲し立てる。 「これはこれは、吉田咲良様のご亭主でしょうか。私は先日お手伝いをお願いいたしました富士屋又造と申すものでございます。今日は先だってのお礼に伺いましたが、お留守のようでしたので、お待ちしておった次第でございます」 「左様か。買い物にでも出ているのだろう。私が伝えておこう」 「へえ、よろしくお願い申し上げます。これは些少でございますがお礼心でございます」 「そうか。渡しておく」 「ありがとうございます。それでは失礼いたします」  ほうほうの態で逃げ帰る富士屋を追って、久秀は裏口から出た。  富士屋又造以外の人相を覚えておくためだが、日本堤に続く板壁の陰で久秀は危うく声を上げそうになり、慌てて口を押える。  三人の男たちが去って行くのを確認して、家に戻ると権さんが板の間に座っていた。 「やあ権さん、助かったよ」 「いやいや、散歩の途中で嫌な顔を見たものですから」 「そうだよなぁ……奴はお前さんの面がわからなかったのかねぇ」 「あの時は月代を整えておりましたからね」 「ああ、でも気配でわかりそうなものだ。先ほどのはあなたの殺気だろう? 奴のとは違ったもの」 「自分の腕を過信しているのでしょうな。もう一人はわかりましたか?」 「いや、あれは侍ではないだろう。富士屋の人間かな」 「追いましょうか?」 「いや、今日のところは泳がせよう。奴らの狙いがわからん」  権左がニコッと笑って頷いた。
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