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天才剣士来訪
次の日から、久秀の留守中は権左がそれとなく安藤家を守っている。
何度か久秀たちの家の周りをうろつく男を見かけたが、特に何をする訳でも無かったので、そのまま泳がしておくことになった。
そんな日々が十日も過ぎた頃、旅塵に汚れた男女が久秀の家を訪れた。
「失礼する。こちらは安藤久秀殿のお宅で間違いないだろうか」
咲良は手にしていた縫い物を置いて、板の間に三つ指をついた。
「主人は仕事に出ております。宇随義正さまと奥様とお見受けいたします。私は安藤が妻、咲良と申します。お待ちしておりました」
「それはご丁寧にありがとう。そうですか、あなたが咲良さんですか。これはあいつには勿体ないほどの別嬪さんだ。なあ、お市」
お市と呼ばれた女性が一歩進み出る。
「お初にお目にかかります。島田宿では安藤様に大変お世話になっておりましたお市と申します。それにしても、安藤様があれほど惚気るはずですわ。本当に凛としてお美しい。ねえ、義さま?」
咲良は真っ赤な顔をして、台所に降り立ち足を濯ぐ桶を準備した。
「ただいまお風呂をご用意いたします。なにせ狭い家でございますれば、お二人にお使いいただく部屋が狭くて……申しわけございませんが、暫くご辛抱ください」
そう言って咲良は準備していた部屋に案内した。
宇随達に提供するのは、久秀と新之助が使っていたつづき間だ。
当面は咲良の部屋と食事をしていた部屋の襖を取り払って三人で眠ることになっている。
「いやいや、寝るところさえ貸していただければそれでもう十分です。宿は何かと不便ですし、安藤の言葉に甘えてしまいましたが、咲良さんには迷惑をかけますね。申しわけ無い」
宇随がそう言うと、お市も横で頭を下げた。
「とんでもございません。何かご不便がございましたら、何なりとお申し付けくださいませ」
準備していた部屋着の着物を差し出して、湯を沸かしに行く。
水はすでに久秀が汲んでいたので、後は薪をくべるだけだ。
久秀を呼びに走ろうかとも思ったが、遠くで暮れ六つの鐘が聞こえる。
裏庭に出てきた宇随が咲良に声を掛けた。
「安藤はいつ頃戻るのですか?」
「いつも暮れ六つ過ぎには戻りますので、もうそろそろかと」
「あいつ、本当に新吉原で働いているのですか?」
「新吉原の中と言うわけではありません。そこに仕出しを運ぶ柳屋というお店でお世話になっているのでございます。旦那様のお仕事はお料理の下ごしらえと昼弁当の配達ですわ」
「へぇ……冗談かと思ったが本当なんですね。あれほどの剣客がねぇ」
「事情がございますので」
「ええ、聞いていますよ。肝心なところは言わないが、狙っている奴がいるのでしょう? そいつの周りを飛び跳ねているコバエは、私にとっても師の仇です。今回やってきたのは全てのカタをつけるためですよ」
「はい、旦那様から聞いております。宇随様ご夫妻をよくおもてなしするようにと言いつかってもおります。どうぞ我が家と思ってごゆっくりなさってくださいませ。そろそろ湯加減が頃合いと存じます。いかがですか?」
「ではお言葉に甘えます」
屋内に戻る宇随の背中を見ながら、いよいよ始まるのだと咲良は実感した。
それからすぐに戻ってきた久秀と新之助。
あの一件から、咲良と新之助に夕方の一人歩きを禁じた久秀は、新之助の迎え役をしているのだ。
「やあ! 宇随さん! ようこそ。お市さんも大変だったでしょう?」
帰るなり宇随に駆け寄る久秀。
その後ろで新之助が姿勢を正して声を張った。
「初めてお目に掛かります。安藤新之助と申します。帰る道すがら宇随先生のお話を父から聞いておりましたので、お会いできるのを大変楽しみにしておりました」
宇随が目を細めた。
「やあ、これはこれは。宇随義正と申します。これは我が妻となる者で、お市です。どうぞよろしく」
台所で手伝っていたお市もニコニコして頭を下げる。
お市を見た新之助が、真っ赤な顔になって暫し固まってしまった。
「あれ? 新之助。もしやお主、お市さんに一目惚れか? 宇随先輩の思い人に見惚れるなど、命が幾つあっても足りぬぞ?」
「ち……父上! 違います! あまりにもおきれいだったので……つい……あっ……いや、違います」
見かねた咲良が助け舟を出した。
「旦那様、新之助を揶揄うのはお止めなさいまし。湯を足しましたのでどうぞ先にお湯あみを」
「そうか? ではそうしよう。新之助、一緒に入るか?」
新之助は聞こえないふりをしてプイッと横を向いた。
「機嫌を直せよ。悪かったってば。そうだ、今日は突きからの手返しのコツを教えてやろう。それで勘弁してくれ」
「本当ですか? わかりました。それで勘弁して差し上げます」
二人が湯度に向かうと、宇随が声をあげて笑った。
「仲の良い親子のようですな」
咲良が眉を下げる。
「ああやっていつも新之助を揶揄うので、困ったお人です」
「ははは。きっと家族といるのが嬉しいのでしょう。咲良さんはあいつの生い立ちを知っていますか?」
咲良がハッと目をあげた。
「恥ずかしながら存じません」
「あいつは言わないでしょうね。でも、あなたは知っていた方が良い。あれでなかなか苦労したのですよ、安藤久秀という男は」
咲良が真剣な顔で頷く。
「あれは安藤家の三男ですが、不義の子でしてね。あれの母親は美人で有名なさる商家の娘でした。商売が傾いて売られるようにして安藤家に嫁いだそうですよ。二男一女を産みましたがその後がいけない。旅役者に惚れちまいましてねぇ。久秀の父親はその旅役者です」
「まあ! では安藤家の血は……」
「ええ、入っていない。奴を三男として安藤家に入れたのは安藤家の当主です。面目のためですよ。間男をされたとあってはお城勤めも儘なりませんからね。しかし奴は安藤家の子としては扱われなかった。幼いころから下男のように働いていたと言っていましたよ」
「まあ……生まれた子供に罪はありませんのに……」
「だが、長男が良かった。あいつに基本的な教養を教え、作法を身につけさせてくれたのはその長男です。父親は江戸藩邸勤めでしたからね」
「左様でございましたか」
「その長男が病で儚くなり、次男が国許の屋敷を差配するようになると、久秀の居場所がなくなりました。そこで江戸へ出て剣の修行を始めたのです。その次男というのも悪い男ではなかったのでしょう。江戸へ行くと言った久秀に、相応の金子を渡したらしいですからね」
「安藤様の御家ではそのような事情が……存じませんでした」
「母親は江戸藩邸で病死とされておりますが、おそらく手打ちにでもなったのでしょう。産ませた子が自分の子供ではなかったと知ったご当主は怒り狂ったはずですから。だからあいつは今でも安藤家に近づかないのです。まあ美人な母親と旅役者の子だ。あのお面は血筋というものでしょうね。そのお陰で私も随分飯を喰わせてもらったものです」
「お顔でご飯が食べられるのですか? あっ、そういえば今も同じようなものでございますね」
咲良は努めて明るく言った。
「ははは! そうですね。ねえ、咲良さん。あいつは本当に良い奴です。それほどの出自なのに性根が曲がっていない。行く当ても無いまま、剣の腕だけを磨いていたあいつを拾ってくれたのは三沢様です。三沢様に対する恩義は相当感じていると思います。だからこそ、無理をしないか心配で仕方がないんだ。あいつは幸せな家庭というものに憧れを抱いています。どうぞよろしくお願いします」
宇随が頭を下げた。
咲良も慌てて頭を下げる。
「何やってるの?」
風呂から出た久秀が二人を見て声を出した。
宇随がニヤッと笑う。
「お前の若い頃の悪行三昧を教えていたのさ」
「ゲッ! そりゃ拙い。また怒られちまう」
咲良が笑いながら言う。
「昔のことなど関係ないですよ。私は今の旦那様が一番大切ですから」
咲良の言葉に真っ赤になった久秀は、慌てるように土間に降りて水をグイっと飲み干した。
「似た者夫婦だな……」
宇随の言葉に頷いたのはお市だけだった。
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