伸明 35

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 「…な、長井さん…お久しぶり…」  私は、言った…  彼女は、愛くるしい…  実に、可愛らしい…  と、  これは、あの菊池リンと同じ…  誰からも、愛されるルックス…  ひとが、警戒心を抱かないルックスだ…  だから、怖い…  冷静に考えれば、怖い…  なぜなら、こちらが、警戒心を抱かないからだ…  だから、うっかり、余計なことを、しゃべったりする…  つい、うっかり、しゃべっては、いけないことを、しゃべたりする…  そういうことだからだ…  だから、気を引き締めなければ、ならない…  相手が、決して、油断できない相手だと、肝に銘じなければ、ならない…  私は、思った…  私は、考えた…  すると、長井さんが、笑いながら、  「…そんなに、お久しぶりというほど、久しぶりじゃないですよ…」  と、言った…  「…会ったのは、つい、先日ですよ…」  長井さんが、その愛くるしい顔で、言う…  私は、  「…そう…そうよね…」  と、言った…  相槌を打った…  そして、相槌を打ちながらも、彼女の笑顔に騙されては、いけない…  彼女のペースにはまっては、いけないと、肝に銘じた…  必死になって、自分自身に言い聞かせた…  そして、そんなことを、考えながら、  「…奇遇ね…」  と、言った…  いくら、この長井さんが、五井記念病院で、研修を受けていようが、偶然、ロビーで会うことは、あまりないからだ…  すると、長井さんが、  「…奇遇なんかじゃ、ないですよ…」  と、口を尖らせて、言った…  「…エッ? …奇遇じゃない?…」  「…そうです…奇遇じゃ、ありませんよ…ここで、寿さんを待っていたんです…」  「…私を待っていた?…」  「…そうです…」  彼女が、胸を張って言う…  私は、驚いた…  と、同時に、一体、誰の指示で、ここで、私を待っていたんだろ?  と、考えた…  当たり前のことだ…  「…それは、長谷川センセイの…」  私は、言った…  この長井さんは、長谷川センセイの姪…  血は、繋がってないが、姪だ…  血が繋がってないというのは、長谷川センセイの姉が、この長井さんの父親と、結婚したから…  長井さんの父親と結婚して、後妻に入ったからだ…  この長井さんの実母が、長井さんの父親と離婚したのか、はたまた、死別したのは、わからない…  いずれにしろ、長谷川センセイの姉が、五井長井家に後妻に入って、この長井さんの義理の母親になったのは、事実…  まぎれもない事実だった…  だから、当然、長谷川センセイの指示で、私をここで、待っていたと思った…  そして、彼女は…長井さんは、私の質問に答えず、ただ、ニヤッと、笑って、頷いた…  答えるまでも、ないと、思ったに違いない…  そして、私が、聞くまでもなく、  「…ご案内しますよ…」  と、長井さんが、言った…  「…ご案内って?…」  「…叔父の指示で、寿さんを、連れて、来なさいって…」  「…そ、そうなの…」  私は、言ったが、内心は、さにあらず…  その通りだろうと、思った…  そうでなければ、長井さんが、このロビーで、私を待っているわけは、ないからだ…  「…では、参りましょう…」  長井さんが、優雅に言う…  これは、長井さんの生まれが出たなと、内心、思った…  私のような一般人とは、違う…  つい、ちょっとした言葉や仕草に、生まれが出る…  生まれとは、そういうものだからだ…  いわゆる、環境が、ひとを作るという好例だ…  私は、思った…  私は、考えた…  そして、長井さんと、歩き出した…  五井記念病院のロビーを歩き出した…  そして、歩きながらも、ふと、思い出したことがあった…  ぜひ、長井さんに、聞きたいことが、あった…  だから、  「…長井さん…ちょっと、聞いていい?…」  と、聞いた…  「…なんですか?…」  「…以前、長井さんと、お話したときに、奨学金うんぬんの話をしなかった?…」  「…ええ、しました?…」  「…失礼だけれども、長井さんって、ものすごいお金持ちだったんでしょ?…」  私の言葉に、いっしょに歩く長井さんのカラダが、固まったのが、わかった…  明らかに、固まったのが、わかった…  それから、  「…家は…」  と、短くぶっきらぼうに、答えた…  「…家は?…」  「…そう…家は、お金持ちです…でも、私は、そうじゃない…」  「…どういう意味?…」  「…自分のことは、自分でやりなさい…それが、我が家の家訓です…」  「…家訓?…」  「…要するに、高校までは、金は出すけれども、その先は、自分で出しなさいって…」  「…お金持ちなのに?…」  「…お金の大切さを知るためだそうです…」  彼女が、不機嫌極まりない表情で、言う…  「…むろん、意味は、わかります…家にお金があるからって、贅沢な暮らしをして、それが、当たり前になり、お金の価値がわからなくなったら、困る…意味は、わかるんです…」  「…」  「…でも、実際に、そんなことをされたら、たまったものじゃ、ありませんよ…」  彼女、長井さんが、憤懣やる方のない表情で、言う…  「…まあ、もっとも、そのおかげで、看護師の道を選んだんですけど…」  「…どういう意味?…」  「…ぶっちゃけ、看護師は、仕事にあぶれることは、ない…食いっぱぐれがない…ものすごい実用的なんです…」  「…」  「…もちろん、叔父さんが、医者だって、ことも、あるんですけど…」  彼女が、笑う…  「…まあ、これが、我が家の家訓が、私に与えた影響でしょうかね…」  「…どういう意味?…」  「…お金の大切さが、身に染みて、わかりました…」  彼女が、苦笑する…  「…それが、両親の狙いだって、ことは、重々承知の上ですから、その罠にはまったということですかね?…」  彼女が、苦笑しながら、続ける…  「…いずれにしろ、その効果はあったということです…」  彼女が、断言した…  私は、彼女の告白に、絶句した…  文字通り、唖然とした…  …そんなに、お金持ちなのに、お金をもらえないなんて…  と、思った…  たしかに、長井さんの言うことは、わかる…  よくわかる…  なまじ、金持ちに生まれれば、生まれるほど、金の価値に気づかない…  金の価値に無頓着となる…  正直、金のありがたみに、気付かなくなる…  例えば、ネットで、検索すれば、コンビニや、スーパーの時給が、今、いくらか、わかる…  つまり、一時間働けば、いくらもらえるか、誰もが、わかるが、それが、実感として、わかないというか…  ハッキリ言えば、自分とは、無関係…  関係のない話だと、思う…  そして、なにより、自分とは、無関係とまでは、思わないまでも、たぶん、実感が沸かない…  なにしろ、自分は、そんな生活は、したことがないからだ…  だから、実感が、湧かない…  普通に考えれば、金持ちに生まれれば、たぶん、興味のない話に違いない…  また、興味があったとしても、実感が沸かないに違いない…  それは、経験したことが、ないからだ…  経験していないことに、実感が沸くわけは、ない…  あくまで、想像…  想像=空想の世界だ…  だからこそ、経験しなければ、ならない…  どんなことも、体験しなければ、ならない…  そういうことだ…  だから、長井さんに、  「…ご立派なご両親ね…」  と、告げた…  私の言葉に、長井さんは、驚いたようだ…  「…どうして、そんなことを、言うんですか?…」  「…だって、ご両親は、きっと、長井さんを大好きなんでしょうね?…」  「…エッ? …どうして、そんな話になるんですか?…」  「…かわいい子には、旅をさせろと言うじゃない…それと、いっしょ…」  「…どう、いっしょなんですか?…」  「…お金のありがたみを知るには、自分で、稼ぐのみ…それが、唯一の方法…」  私が、笑いながら言うと、長井さんは、絶句した…  言葉もなかった…  そして、少しして、  「…たしかに、意味はわかるんですけど、辛いですよ…」  と、ぽつりと漏らした…  「…辛い?…」  「…辛いです…」  長井さんが、即答する…  「…でも、いつか、きっと、それが、いい思い出になるわよ…」  私は、言った…  笑いながら、言った…  彼女を応援するためだ…  が、  やはりというか…  彼女は、少しも納得した様子には、見えなかった…  「…そうでしょうか?…」  と、口を尖らせて、言う…  「…たしかに、意味は、わかりますが、やっている、私は、大変ですよ…」  「…それは、そうでしょうけど…」  「…だったら、寿さんは、過去の辛い体験が、なにか、役に立ちましたか?…」  彼女が、いきなり、言った…  私が、思ってもみないことを、言った…  だから、答えられなかった…  すぐには、言えなかった…  そして、そんな私を見て、  「…ほら、答えられない…」  長井さんが、笑った…  「…所詮、他人事だからです…だから、答えられないんです…」  彼女が言う…  強い口調で言う…  私は、言葉もなかった…  事実、その通り…  その通りだからだ…  だから、言葉もなかった…  そして、長井さんは、容赦がなかった…  「…寿さんは、美人だから、きっと、周りの男のひとに、チヤホヤされて、生きてきたから、苦労がないんですよ…」  と、言った…  まさに、容赦ない…  初対面とまでは、言わないが、まだ知り合って、まもない若い女…  私より、十歳年下の女に、まさか、そこまで。言われるとは、思わなかった…  同時に、気付いた…  なにに、気付いたか?  これこそが、五井…  五井の血を引く女だと、思った…  とんでもなく、気が強い(苦笑)…  まさに、これから、見舞いに行く、和子を彷彿させる…  また、和子の孫、菊池リンもまた、気が強かった…  その愛くるしい顔とは、裏腹に、ビックリするほど、気が強かった…  そして、以前、和子が、言った…  「…五井は、女たちが作っている…五井の血を引く、強い女たちが、五井を支えている…」  と、いう言葉を思い出した…  初めて、その言葉を聞いたときは、なるほどとぐらいしか、考えなかった…  そして、以前、諏訪野マミが、  「…寿さん…五井は、どうして、それぞれ、名字が違うか、わかる?…」  と、聞いたときも、それほど、考えなかった…  ただ、  「…わかりません…」  と、答えた…  が、  その真相は、ただ単に、明治時代になって、五井の血を引く女が、優秀な婿をそれぞれ、とって、独立したのが、真相だった…  五井の血を引く強い女が、優秀な婿を取り、事業を拡大させたのが、今の五井を作った…  それが、真相だった…  だから、皆、女たちは、気が強い…  それを、思えば、この長井さんもまた五井…  間違いなく、五井の血を引く女だった(笑)…                <続く> 
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