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ふと、頭に鳴り響いた声に、シルフィリアは天を振り仰ぐ。
そこには、見知らぬ天井があった。
驚いた彼女が周りを見渡すと、そこはとても狭い部屋のようだった。
四角く艶めいた何かが沢山置かれていて、ガラス越しに隣の部屋が見える。
四角い何か――映像魔法が施された魔道具だろうか――は、いくつかは起動しているようで、文字や絵が映り込んでいたり、表のようなものが動いている様が見て取れた。
全体的に雑然としており、シルフィリアの知らない器具が多く並べられているけれども、複数人で何かしらの執務を行う部屋なのだろう、机と、座り心地のよさそうな椅子がいくつか並べられている。
そして、その部屋の中にはどうやら誰も居ないようであった。
しかし、そのことにシルフィリアは気が付いていなかった。
なぜなら隣の部屋、ガラス越しに、異様な光景が目に映ったため、それどころではなかったからだ。
円柱状のガラスの筒の中に、液体に沈んだ子どもが存在している。
目も閉じられていたため、一瞬、死体を保管しているのかと思ったけれども、口に呼吸器をつけられており、わずかに肺が動いているので、おそらくは生きているのだろう。
衣服をまとっていないようだが、ガラスの筒は下半分が透けない仕様となっており、その体をよく見ることはできない。
それゆえに、その子供が男なのか女なのか、シルフィリアには判別することができない。
けれども、何故。
どうしてこんなことを。
『お前は、そのように思うのだな』
背後から声がして、驚いたシルフィリアは身をひるがえす。
そこには、ふかふかの椅子に腰かけた、恰幅の言い黒髪の男がいた。
年のころは、三十代後半だろうか。
満たれた長髪、無精ひげを生やし、眼鏡をかけてはいる彼は、端正な顔立ちとはいわないものの、目が大きく、愛嬌のある顔立ちをしている。
男は、土色の上着と、紺色の薄汚れた下履きをはき、医師や神官が纏うような、真っ白なシャツ素材のコートのような上着を羽織っていた。
上着の下の服装は、色やその摩耗具合だけを見ると浮浪者のようであったが、その作りや縫製は細やかで、シルフィリア達の国と違った文化、そして文明の高さを感じさせる。
男は、黒い椅子の上で足を組むと、からかうような挑戦的な目つきで、シルフィリアを見た。
『これは、始まりだ』
見た目どおりの低い声は、聴いたことがないはずだが、どこか懐かしい気もする。
『これを見た者は、意外に多い。怯える者、感嘆する者、不思議を追求する者。子どもにひどいことをしているのではないかと疑う者。色々居たが』
低く心地のいい声で紡がれたその言葉は、その声音に反して、シルフィリアの心に指をさし、ぬるま湯に居ることを許してくれない。
『お前はまず、理由を知りたいと考えた』
「……あなたは」
『緋色の姫よ。お前は何を望む?』
シルフィリアの声が聞こえているのかいないのか、男はにやりと嗤いながら、彼女に問うた。
何を望むか。
すべてを失ったシルフィリアにとって、その質問によって想起される思いは、簡単なものではない。
多くの思いが心をよぎり、口を開くことができない彼女に、男は愉しそうに口の端をゆがめている。
『すべてを手に入れたいか』
男はただ、問いかける。
『すべてを、救いたいか。国を救いたいか。妹達を、家族を助けたいか』
欲望を口に出され、身をこわばらせつつも、口を開かないシルフィリアに、男は何故か満足そうにしている。
『ここで怯む。王族としての誇り、責務、長子としての役割よりも悩むことがあるか』
言葉とは裏腹に喜色を浮かべた男を、シルフィリアが思わず睨みつけると、男は声を上げて笑い、軽やかに立ち上がって彼女に近づいてきた。
目の前に立つと、男はシルフィリアよりも頭二つ分は背が高く、恰幅のいい体つきもあいまって、シルフィリアには巨熊のようにも思える。
『もはや、お前が最後かもしれないからな。期待させてくれよ』
「……最後?」
『あと、三人しか居ない』
ぎくりと身をこわばらせたシルフィリアに、男は苦々しげに頭をかく。
『あいつ、あの女。あれの残した奴らの、見事なことよ。まさかここまでやるとはなあ』
「……あの、女?」
『元より俺なんぞより才があったから、仕方のないことなのだろう。しかしなあ』
「……」
『それにしても、よく似ていることだ。まあ、それを言えば、お前もなのかもしれないな』
男はきっと、シルフィリアに理解させるつもりはないのだろう。
それを察した彼女は、落とされる言葉に、ただ耳を傾ける。
そんな彼女に、男は破顔すると、彼女の美しい金糸を武骨な手で乱すようにして、その頭を撫でた。
「何をするのです」
『はは。気の強いところはいい。あれも気に入ることだろう』
「あなたは、なんなのです」
『そのうちにわかるだろうよ』
そうして男が目を細めると、男とシルフィリアを中心に、魔法陣が展開された。
シルフィリアは目を凝らしたけれども、魔法陣の内容を読み取ることができなかった。彼女は王族として、魔法学にも真面目に取り組んできたが、それにもかかわらず、その効果を計り知ることが叶わない。ただ、複雑な術式の技術の高さだけを感じ取り、シルフィリアは思わず身を固める。
その魔方陣がふわりと虹色に輝くと、あたりの景色は全て消え去り、シルフィリアはただ一人、暗闇の中に取り残された。
『また会おう、緋色の姫君。愉しみにしている』
その言葉に、シルフィリアは唇をかむ。
それは、やっかいな者に目をつけられたと思ったから。
そして同時に、敵ではない者との接触に飢えていたことに気が付き、自己嫌悪で溺れるような心地だったからだ。
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