5 無力な姫君

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 光が差し込んできて、ふと目を開けると、大きな寝台の端に寝かされていた。  シルフィリアは混乱しながら、昨夜の記憶を揺り起こす。  どうやら、洗面台の前で泣き疲れて眠ってしまったところを、寝台に運ばれたらしい。  何が現実で、何が記憶で、何が幻なのか。  記憶と知識が疲労で混ざっていくようだったが、シルフィリアはどうにかして頭を動かし、先ほどまで目の当たりにしていた光景が、すべて夢の中のできごとであったと理解した。  そして残念なことに、敵国の第四王子の閨に招かれ、その寝台で寝ている今この瞬間は現実のようである。  シルフィリアが周りを見渡すと、カーテンの隙間から朝日が差し込んでおり、隣には誰もいなかった。  シルフィリアは、かの男が隣に居なかったことに安堵し、周囲をゆっくりと見渡す。  寝台の脇机にガラスの水差しとコップが二つが置いてあり、こくりと喉が鳴った。  昨夜は泣きながら寝てしまったので、彼女の体は水を欲している。  ガラスのコップのうち、一つは既に使われた跡がある。おそらく、あの第四王子が使ったのだろう。  少しの間逡巡した後、彼女はおそるおそる、水差しに手を伸ばした。  形のいい水差しから、ゆっくりとコップに水を注ぎ、それを自らの口元へと運ぶ。  一度飲み始めると、先ほどまでためらっていた気持ちが霧散した。  勢いよく一杯目を飲み干すと、さらに水を注ぎ、その半分をさらに飲み干す。そうして一息ついたところで、口の中に柑橘系の香りが広がっていることに気が付いた。  おそらく、檸檬か何かで香りづけをしてあったのだろう。  喉が潤い、気が緩んだところで、風呂へと繋がる扉が開き、シルフィリアは思わず小さく悲鳴を上げてしまった。  現れたのは当然ながら、件の赤髪の第四王子である。  彼女よりも先に起きていたレイファスは、既に着替えをすませていた。  しかし、昨日の日中に見たときは一つに結ばれていたその長髪は、今は結わえることをされておらず、それがまだ、彼が私的な空間に居るのだということを想起させる。  シルフィリアは幼いころから私室を与えられ、侍女達に囲まれて生活していたので、男性のこのような姿を見ることがほぼなかった。  そのため、急に現れたレイファスに、目をさまよわせてしまう。  王族としての鎧が脱げ、ただの乙女として狼狽えているシルフィリアに、しかしレイファスはそんな彼女の様子を一顧だにしなかった。 「起きたか」 「……」 「この状況で、随分深く眠っているものだ」  煽るような言葉を聞いて思わず眉根をよせたシルフィリアに、男は炎をのように赤い髪を揺らしながら、構わず近づいてくる。  そして、近くの椅子に掛けてあった布のようなものを手に取り、寝台の脇机の引き出しから小瓶を取り出すと、シルフィリアに命じた。 「立って、こちらに来い」 「え……」 「それとも、腰が立たたないか」  カッと顔を赤らめた彼女は、すぐさま立ち上がろうと身を起こすも、薄手のナイトウェアのままであることに気が付き、小さく悲鳴を上げる。  レイファスは手に持っていた布をシルフィリアにかけ、彼女はようやく、それが女性用の白いガウンであることに気が付いた。  慌てて渡されたガウンを羽織ると、彼女は寝台から抜け出す。  そうしたところで、レイファスが毛布を寝台の端によけ、先ほど手に取った小瓶の中の白い液体を寝台に撒いた。 「手を出せ」 「……? 痛っ」  血が滴り、寝台を赤く染める。  レイファスの爪が獣のように変じ、シルフィリアの手の端に、傷をつけたのだ。  驚きを浮かべた緋色の瞳に、レイファスは表情こそ平然としているものの、それとなく目をそらしている。 「我らは鼻が効く。こればかりはお前のものでなければならぬ」  それだけ言うと、レイファスは同じく脇机の引き出しからまた別の小瓶を取り出し、中に入ったねっとりとした液体をシルフィリアの傷に塗り込んだ。 「包帯は目立つ。これで我慢しろ」 「……あの」 「礼は言わぬことだ。お前達の国を滅したのは私だ」  身をこわばらせるシルフィリアに、レイファスは何の興味もないらしく、そのまま彼女の側を離れると、鈴を鳴らして使用人を呼ぶ。  やってきたのは、昨晩シルフィリアの身支度を行なった侍女の一人であった。  ミルクティー色の髪の、可愛らしい侍女だ。  歳の頃は、シルフィリアよりも少し若いくらいだろうか。 「アリア。いつものとおりに」 「はい」  アリアが微笑むと、レイファスの顔がほのかに和らいで、それは何故だか、シルフィリアは胸の奥に靄が生じたような不快さを生んだ。  そんなシルフィリアの心を知ってか知らずか、レイファスは元の冷たい表情で、彼女に言い放つ。 「アリアはすべてを知っている。アリア以外には余計なことを話すな」  答えないシルフィリアに興味がないのか、レイファスはソファに向かう。  シルフィリアは、そんなレイファスを見て、思わず呟いた。 「……目的は、何」  その声音には、彼女が自分で思う以上に敵意が含まれていたが、レイファスはしかし動じなかった。 「……」 「何故、親切にするの」 「そのような真似はしていない」 「私の命を助けた」 「詮索は許さぬ」  男の目が細まる。  底冷えするようなその青い視線が、シルフィリアは内心恐ろしくて仕方がなかったが、何とかその場に踏みとどまった。 「昨晩、そう伝えたはずだ」  ゆっくりと近づいてくる男は、その姿が陽炎のように揺らめき、その静けさの中から、狼を体現した獣が現れる。  炎のようなその獣に見下ろされ、シルフィリアは引くことはしなかった。  けれども、それが彼女にできる精一杯の抵抗であった。 「威勢がいい割に、震えている」 「……違う」 「逆らうな」  彼女の指ほどもある長さの爪が、首筋を撫でるように掠める。  触れていればたちまち鮮血に染まったであろうそれは、しかし彼女を傷つけることはなかった。 「私には私の思惑がある。すべて理由あってのこと。そして、お前がそれを知る必要はない」 「気に食わない理由なら、従わないわ。物理的に強制されたとしても、私は」 「お前は弱い」  真っ直ぐに否定の言葉を向けられて、シルフィリアは反応できなかった。そんな彼女を、獣は嘲るように見下す。 「腕力が足りぬ。権力が足りぬ。人脈が、知識が、力が足りぬ。お前は国を守れなかった。それどころかお前は、お前一人を守ることもできぬ脆弱な存在だ」  それは、今の彼女にとって最も耐え難い言葉だった。  そして目の前の男は、それがわかっていて、シルフィリアの心を折るために、敢えて口にしている。  悔しさで震える彼女に、レイファスは静かに言葉を落とした。 「従うならば、弟達に会わせてやる」  ハッと顔を上げると、冷え切った青色と目が合った。 「精々、大人しくしていることだ」  それだけ言うと、レイファスは人の姿へと戻り、ソファに座って朝食を取り始めた。  シルフィリアは、何もできなかった。  俯いた彼女は、唇をかみしめ、アリアに連れられて浴室へと向かった。
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