1 滅びゆく国と囚われの身

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1 滅びゆく国と囚われの身

 赤い炎だった。  火の海に呑まれる王城の中、兵士達を薙ぎ払い、その場の拮抗を崩したのは、たった一人。  全身が毛に覆われた獣の巨躯は、その大きさに反してしなやかに舞い、只人にすぎない自国の兵士達を打ち払っていく。  獅子のような鬣は、赤く炎のように揺らめき、王城を燃やす火花のような軌跡を描く。  そうして、静かになった広間の中、その人は、二本の足で玉座に向かって歩を進めた。二メートルはあると思われる血糊に塗れたその姿、しかしその悠然とした動きは、赤黒く薄汚れた大きな獣に知性と品性があることを窺わせる。  そして、透き通るような輝きを放つ青色の双眸に移るのは、金色の髪、緋色の瞳をした、若い娘。  その娘が瞳に移った瞬間、獣は何か眩しいものを見ているかのように、目を細めた。  実際に、眩しく感じたのかもしれない。巷の王侯貴族であっても、ここまでの美貌を持つ者は居ないであろう、とびぬけた美しさがその娘にはあった。大きな瞳も、桜色の薄い唇も、何もかもが美しい。  そして、漆黒の騎士服を身にまとっているが、手にしている剣は鞘に包まれたままで、ただ茫然と、獣の様子を見ている。  獣は、目の前の娘が、己の姿に目を、心を奪われていることに、ほのかな優越感を抱き、しかしその矮小な思いを、歯をかみしめて握りつぶす。  それは、必要のないものだ。  この世に必要がない、強欲で、あさましい――獣の衝動。 「……この国の、姫と王子か」  低くかすれた声で発されたその言葉に、金髪の娘は、ハッと顔を上げる。  そして、後ろにいる、彼女よりも多少背の低い、金髪碧眼の少年をかばうようにして腕を上げた。  後ろにいた少年は、彼女と同様に漆黒の騎士服に身を包んでおり、抜身の剣を握ってはいたが、おそらく実戦経験がないのであろう、剣を握る手を震わせたまま、彼女にかばわれて、立ちすくんでいる。  金髪の娘は――シルフィリア=フロル=シグネリアは、必死に思考を巡らせながら、目の前の脅威に向かい合った。  彼女は知っていた。  目の前の獣は、人ではない。獣でもない。獣の本性を持つ、シルフィリア達とは違った存在――獣人。その中でも、これほどの巨躯と武勇を誇る存在は、シルフィリアが伝え聞く限り、一人しか居なかった。暴虐の化身、炎の狼と呼ばれる者。大国ラグナの、王族の一人。  毅然と頭を上げ、見据えてくるその娘に、獣はくっと喉の奥で嗤う。  怯んだ娘に、獣は打ち据えるように言葉の槍を投げた。 「何故逃げない」  意外な問いかけに、シルフィリアはピクリと目で反応する。  攻め入ってきた者が何を言うのか。  苛立ちを隠さない彼女に、獣は動揺することなく、ただその大きな体から、嘲るような声を放った。 「愚かな女だ。お前の妹達は、俺が殺した」  頭を殴られたような衝撃に、シルフィリアは自分の立場を忘れて声を上げる。 「――嘘よ!」 「嘘ではない」  揺れのないその言葉に、シルフィリアは指先が冷たくなるのを感じる。  シグネリア王国の国王である父は、戦いの指揮のため戦線に赴いた。母は最期は父と共に在りたいと、父についていった。  留守を守るのは、長子である第一王女シルフィリアと、嫡子である弟、第一王子ジルクリフの役目だ。  シルフィリアは何度も、弟に逃げるように伝えた。  しかし、弟は頷かなかった。むしろ、シルフィリアに逃げるように何度も諭してきて、彼女は当然ながらそれを断り、最終的に妹達だけを逃がすことにしたのだ。  シルフィリアとジルクリフは、三人の妹達を王家の隠し部屋へと隠し、二人で、このシグネリア王国の王城、玉座の間から動かなかった。  けれども、目の前の男は、玉座の間に来るよりも前に、王族の隠し部屋を見つけたのだと言う。  そして、三人の妹達を……。  怒りに燃えるシルフィリアの瞳に、目の前に立ちはだかる獣は、その深く青い瞳を光らせ、喉の奥でほのかに嗤った。 「緋色の姫。自らの命を戯れに使うか」 「……!」 「姉さん!」  カッと頭の中が真っ白になったところで、弟のジルクリフがシルフィリアを抑えつけた。  彼女をその場に跪かせ、自らも床につかんばかりに深く頭を下げる。 「貴殿はラグナ王国が王族のお一人とお見受けする。発言する無礼をお許しいただきたい!」 「……いいだろう」 「私はシグネリア王国が嫡子、第一王子ジルクリフ=フロル=シグネリア。私のことは如何様にもするがいい。だが、姉と生き残った民は、どうか助けてもらえないだろうか」 「ジル!」 「姉については、命までは難しいだろう。だが、どうか無体なことだけは」  青ざめるシルフィリアは悟った。  この十四歳の弟は、生き残った王族、そして女性である姉シルフィリアの尊厳を守ろうとしているのだ。  だかしかし、その覚悟をあざ笑うように、目の前の野獣は冷たく言い放った。 「それは聞けぬ相談だ」  血がにじむほど唇をかみしめ、それでも頭を下げ続ける弟に、シルフィリアは動けない。  玉座の間の扉から、ラグナ王国の兵士達が大量に侵入してくる。  野獣は、感情をそぎ落とした声で、彼らに命じた。 「連れていけ。……分かっているな」  その言葉を最後に、野獣は去っていった。  シルフィリアとジルクリフは、引きずられるようにしてその場から連行された。  この日、五百年続いた小国シグネリアは、獣人の国、大国ラグナによって、一夜にして滅ぼされたのである。
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