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運命
蔵野貿易の会長である蔵野三太には、
清楚でお淑やかな、お砂利という女子大生の一人娘がいた。
お砂利は頭脳明晰で器量も良く、決して偉ぶる所もない、人間として、女性としても非の打ち所がない女性だった。
美貌を鼻にかけるような所は微塵もなく、ましてやそんな低俗な心も持ち合わせていなかった。
老若男女問わず、身分の違う相手にも分け隔てなく接するお砂利の姿に、心を奪われない者はいなかった。
そんな女性であるお砂利の下へ、一目で良いからと、蔵野の屋敷へ訪れる男達が後を経たなかった。
年甲斐もなく大学の教授や学長までもが、お砂利に恋心を抱く程だった。
だが、恋とは恐ろしいもの。蔵野三太はその辺の事をよく理解していた。
何故なら我が娘ながらあまりの美しさに我を忘れ見惚れてしまう事もあったからだ。
今夜の夕食の席でもそうだった。
「お父様?お手がお止まりのようでございますが、ご気分でもお悪いのでございます?」
「あ、いや。何でもない。大丈夫だ」
「そうでございますか。なら安心ですわ」
「仕事の事で、ちょっとな」
「お父様、今は楽しいお食事の席でございますよ
少しの間、お仕事の事はお忘れになられた方が、よりお食事も楽しいものとなりますわ」
「そうだな。お砂利の言う通りだ。心配かけてすまなかった」
蔵野三太が、考え事をするのも無理もなかった。
今朝方、とあるお方からお砂利の縁談話が持ち上がったからだ。相手は政財界でNo.2の力を持つ、鴨居田将吾のご子息だ。数年後には史上最年少での内閣総理大臣との噂も聞く。
そのような方からの縁談話を、蔵野三太は断るべきか受けるべきか頭を悩ませていた。
受ければ、お砂利は我が手から離れていく。
お砂利は一族の事を思い、好みでもない男の下へ嫁ぐであろう。反対に断れば、先祖7代続いた貿易業に亀裂が入るのは火を見るより明らかだった。鴨居田という男なら素知らぬ顔で私を潰しに来るだろう。本当に悩ましかった。
どちらにしても数日後には答えを出さなければならない。それまでは今以上、お砂利に変な虫がつかないようにボディガードの人数を増やし女子大への送迎を徹底させた。突然の襲撃に備える為にリムジンの窓は防弾ガラスが使用されていた。
「お父様、お話があります」
鴨居田に呼び出された朝、出かけようとした蔵野を呼び止めたのはお砂利だった。
「急ぎの仕事だ。話なら夜に聞こう」
「いいえ。お父様。それでは遅すぎます」
お砂利が、蔵野に口ごたえしたのはこれが初めてだった。その驚きで蔵野は靴べらを持ったまま動けなかった。
「遅いとはどういう事かね」
「市ヶ谷階段を使いたいのです」
「それは駄目だ」
「どうしてでございますか?」
「あの場所は立ち入り禁止だ」
「何故禁止なのです?」
「市ヶ谷階段を登った者は、2度とこちらへ戻って来る事は出来なくなるからだ。私がまだ幼かった頃、長兄が父から扉の鍵を盗み中へ入り市ヶ谷階段を勝手に登り、その後、2度と帰って来る事はなかった。階段を登った先に何があるかお砂利は知っておるのか?」
「ご噂は私の耳にも入って来ております」
「ほう。それはどのような物と?」
「四谷怪談に出てくるお岩の墓があると」
「知っての通りお岩は、四谷の稲荷田宮神社に祀られおる」
「そうです。ですが私のいう墓はそれとは別物でございます」
そのようにお砂利に言われ、蔵野は黙ってしまった。一刻も早くこの場から去らなければと急いで革靴を履き、靴べらを戻した。
「お父様はご存知なのでしょう。何故なら、それが証拠に私の名はお砂利ですから。きっとお岩にちなんでつけたのでございましょう。それにお父様が夜な夜な、市ヶ谷階段を使用しているのを私は知っております」
そこまで気づいておったか、と蔵野は思った。
なら仕方ない。これ以上シラを切り通せば、お砂利の事、無理にでも市ヶ谷階段を登るに違いない。
「わかった。なら好きにすれば良い」
蔵野は肌身離さず持っていた市ヶ谷階段入り口の扉の鍵をスーツの胸ポケットから取り出した。お砂利に手渡し何も言わず屋敷を出て行った。
一方、お砂利は鍵を受け取ると直ぐ様、屋敷裏にある市ヶ谷階段へと向かった。鍵穴に鍵を差し込み観音開きの扉を開けた。
一段ずつ登った先には錆びついた鉄製の柵があった。その奥は洞穴となっていて、入り口から先には左右に蝋燭の炎が灯されている。恐らくこの炎は絶やすことなく燃やされているのだろう。
柵には鍵らしきものはついていなかった。かと言って入り口も見当たらない。お砂利は両手でその鉄製の柵を掴んだ。押せば良いのか。それとも引くのか。お砂利は握った手に力をいれ、揺すってみた。
その時、偶然にも柵が横へ動いた。お砂利は動いた方へ
柵を横へずらし洞穴の前に立った。
耳にした噂ではお岩は顔の皮膚が剥がれるという病に犯され醜い顔となっていたようだった。
だが、そんなお岩を一途に愛した男があったという。その者が建てたお岩の墓がある筈だった。
お砂利は蝋燭の炎を頼り、ゆっくりと歩を進めて行った。蛇行のような道の突き当たりに、それはあった。
小さ目の祠と祠の間に、洞穴の天井に届きそうな大きな祠がある。
お砂利は大きな祠の前に立った。
お墓ではなかったの、とお砂利は思った。
ここへ来たのには理由があった。お岩の墓を前に、私は私の気持ちを伝えたかったのだ。
だが、目の前には後の人間がお岩を奉る為に作った祠があるのみだ。
やはりお岩を一途に慕い続けたという男性が、
お岩の死を悼み建てた墓があると言うのデマカセだったのか。
お砂利はガッカリした気持ちを胸に祠へと手を伸ばした。もしかしたら祠の中にそのお墓があるかも知れない。これほど大きければ隠す事も可能な筈。
お砂利は祠の木扉を開けた。中にあったのは
無数の小石の山だった。その1つを手に取ってみた。所々が黒ずんでいるのは、血?だろうか。
他の小石も確かめてみた。同じように黒ずんだものが付着していた。
想像でしかないけれど、この小石はひょっとして、醜いお岩に向けて投げられた無数の石なのではないか?
お砂利は身震いした。よってたかって小石を、投げる野蛮な人の姿が思い浮かぶ。罵詈雑言や嘲笑を浴びせお岩を笑い者に仕立て上げたのではなかろか。
惨すぎる、とお砂利は思った。
人は他人に言えない辛さを持っているもの。
容姿や経済、肉体的な悩み、精神的なものもある。なのに哀れむでもなく嘲るなど、人としてあってはいけない愚行。
お岩はどんなに苦しかっただろう。辛かっただろう。お岩を一途に思い続けた男性とどうして結ばれなかったのだろう。悲しみという運命の歯車に翻弄されたお岩の気持ちを思うと、お砂利はいても立ってもいられなかった。
気づけば、お砂利は祠に祀られてあった小石を全て持ち帰っていた。
「お父様。今日は本当にありがとうございました」
夕食の席についたお砂利は頭を下げてそう言った。
「市ヶ谷階段の事を隠していた事はすまなかった」
「いえ、むしろ今まで隠されていたお陰で、私は過ちを、犯す事がなかったのですから」
「というと?」
尋ねられたお砂利は祠で感じた事をお父様に伝えた。
「そうか。お砂利がそう感じてくれたのは私の誇りだ」
「とんでもありません。ですが、お父様、幾らなんでも、私が立ち入らない為にお父様の長兄が行方不明になったとの嘘はあまりにも大袈裟過ぎます」
それは嘘ではなかった。私の兄は本当にいなくなったのだ。神隠しにあったのだと父は言い大掛かりの捜査もした。だが兄が見つかる事はなかった。当時の洞穴は今よりも安全面について、いささか不安定な所があった。天井からの落石もあれば、何処かしらか風の通り道もあった。ひょっとしたら足下が崩れ、兄は洞穴の下へと落ちてしまったのかも知れない。それほどまで不安定な洞穴だったわけだが、私が後継となった時、最初に手がけた仕事が洞穴の修繕工事の依頼だ。それ以降、落石などは起こっておらず、風が入ってくる事もなかった。だが、私の話を嘘というのなら、それはそれとして、そうしておくのが1番やも知れぬ。
「所で、お砂利」
「何でしょう?」
「縁談の話が来ている」
「私はまだ学生の身分でございますよ?」
「先方は、卒業後で良いと望んでおる」
「私がその方の奥方になれば…」
お父様がお砂利の言葉を遮った。
「家業の事を憂いているなら心配はいらぬ。
嫌な嫌で構わない。私は常日頃からお砂利が自分の気持ちには正直であって欲しいと願っておるだけだ」
「わかりました。ではお父様の立場もおありでしょうから、会うくらいは構いません」
「そうか。なら…」
お父様はいい、部屋の角で待機していたメイドにこちらへ招くよう伝えた。メイドは静かに頷くと足音も立てず部屋から出ていった。
「実は、今日、来ておるのだ」
「そうでございましたか」
私が言うと同時にその人が現れた。
「お砂利お嬢様。こんばんは。鴨居田健二郎と申します。お初にお目に掛かれ大変光栄で御座います」
鴨居田健二郎が私に向かって挨拶をする姿を見とめるとお父様は椅子から立ち上がった。
「後はお若いお二人で、今宵の一時をお楽しみ下さい」
お父様はいい、部屋から出て行った。
食卓に出されてあった食事は一旦、下げられ改めて食事が用意された。お父様。今夜、鴨居田健二郎が来る事は既に決まっていたと言う事ね。用意周到だ事。私は微笑みを絶やさず、鴨居田健二郎の話に耳を傾けた。時折、質問を投げかけ、その人となりに探りを入れた。政治、経済、文化的思想も半を押したような答えだった。要するに政財界で、好まれるような返答という事だ。
「私から1つ宜しいでしょうか?」
ナプキンで口を拭き、それを畳んでテーブルの上に置いた。
「ご遠慮なく」
「では」
私は化粧直しの為に必要なポシェットを手に取り開けた。中には祠にあった小石が入れてある。その小石を数個掴んで握りしめた。手を引き出しほを閉じる。手をテーブルの下へ戻した。
「四谷怪談はご存知でしょうか?」
「ええ。勿論です。お岩という醜い女性の旦那がお岩と別れたいが為に旦那の友と共謀し、酷い旦那を演じまんまと離婚を勝ち取ったという話でしょう」
「そうですが、それはお岩という話の側面でしかありません」
「そもそも、お岩の旦那も騙されて婿養子にされた口ですからね。それを騙されたと憤るのは筋違いではないでしょうか」
「そんな事はありません。旦那を騙したのはお岩の父の友人です。旦那が恨むのはお岩ではなくその友人でなければなりません」
「かも知れませんね。ですが考えてみても下さい。誰がみても婿など貰えるような容姿ではなかったお岩に一時だったとしても夫婦という幸福な時を与えてくれたのは、紛れもなくその旦那です。なのに最終的にそのような相手を恨むのは見当違いというしかありませんね。全くもって旦那は被害者ですよ」
「ならば話し合えば良かったのではありませんか?お岩と別れる為に友人の手を借り暴力を振るったり、ヤクザなら真似で家財道具を売り捌くなどもっての方。それだけでは治らず他に女を作り、お子まで孕らすなんて、男性の風上にもおけない屑です。同じ男性として、健二郎さんはどうお思いになられますか?」
「忘れてはならないのは、最初に騙されたのは旦那だという事です。情に絆され婿養子になったのは頂けませんが。その時に断るべきだったのです。私も詳しくは知らないので、わかりませんが、旦那としてもお岩と離婚する為に話し合いは持たれたと思いますね。それをお岩が拒絶した。
ま、わからないでもないですよ。この男を手放してしまえば2度と婿など迎えられないし、この容姿なだけに嫁に欲しいと言ってくれる男性もいる訳がない。行き止まりな人生なのはお岩もわかっていたでしょう。だから離婚には同意しなかった。そうなれば男からしたら、やる事は限られます。他に女を作る。ストレスをぶつける。時には暴力を。時には言葉でお岩を罵しる。離婚を認めてくれないならば、それしか出来ないではありませんか?夫婦といえど、人生はその人個人の物です。他人が口出せる事ではありません。なので離婚に承諾したからと言って、他に女がいて子供が、いたとしても、お岩に旦那を恨む理由などありはしません。男からしたら筋違いも甚だしい。
私は四谷怪談についてはそのような見解の持ち主であります」
「なるほど。健二郎さんはそのようなお考えなのですね」
「全世界の男性の総意だと言っても言い過ぎではありませんね」
「健二郎さんはご存知では無いかも知れませんが、世の中には健二郎さんのような男性ばかりではありません。お岩を一途に思い続けた男性がいたのです」
「それはそれはなんと美談な事でしょう。きっと世間体を鑑みて仕方なく女性を気遣う為にに作られたものでしょうね。ですが先程申し上げた通り現実の男性という生き物は、多少の物好きを除けば、皆、旦那と同じです。それは現代でも明らかですよね?お嬢様のような方には皆、好意を抱きます。反対にそうでない方には男性は見向きもしません。それは女性だって同じです。地位や財産、見栄えが良い者には多くの女性達が集ってきます。まさかお嬢様ともあろう人が、それを否定なさるつもりではありませんよね?」
私はお岩の気持ちが少しわかった気がした。
このような男性がもし旦那であったならば、怨みたくもなる。ましてや騙され離婚をさせられたとなれば、殺したくもなるだろう。
幸いにも私はこの屋敷に産まれ育ち、仮にもこのような男からでも、私を妻にしたいと申し出て来るのですからお岩よりはマシというもの。
「ですが、私はお岩を、一途に思い続けたという男性に惹かれます。私自身もそうありたいですし、難しいかもしれませんが相手側もそうであって欲しいと願います」
「そんなのは夢物語ですよ。一体、世の中にどれだけの男女がいるとお思いですか?もしそのような者がいたとすれば、奇跡としか言いようがありませんね。不可能です。目移りは人間の特性です。その特性があるからこそ、人間の生きる世界に多くの文化が生まれて来たのです。特性が無ければ人類などとっくに滅んでいたでしょう。
お嬢様のいうような人が現実にいるとしたら、それこそ祠に奉るべきだと思いますね」
つまり健二郎という男性は私に求婚するつもりであるのに関わらず、目移りは仕方ないという考えをお持ちな男性だと言う事だ。その上で浮気や暴力、暴言は致し方ない、認めざるおえないものだと。そのあるべきだと、そう心して置くようにに私に強要している。
私は祠から持って来た血塗られた石を握りしめた。このような男性が生きているのは世の中の女性の為にならない。お岩の運命を追うような羽目になる女性が増えるだけだ。私はゆっくりと息を吐いた。握りしめた指を片方の手で一本ずつ外していく。ポシェットを取り、石をしまった。
「少し失礼致します。健二郎様、お料理が冷めますので、ご遠慮なく頂いて下さいませ」
「では、遠慮なく頂戴させて頂きますね」
私は席を立った。真っ直ぐ化粧室へ向かった。
鏡を見つめる。紅を塗り直す。再び鏡を前にして自分は女だと自覚する。
「お父様。ごめんなさい。申し付けに逆らうのはこれで2度目になりますね」
私はポシェットを化粧台の上に置いたまま、化粧室を後にした。
部屋に戻り、健二郎様と向かい合う。健二郎様は余程、お腹が空いていたとみえ、私が席を外している間、殆どの料理を平らげていた。
「健二郎様、ここ」
私は私の唇の横を指差した。
「ん?何でしょう?」
言いながら新たな料理を口を運んでいる。
私はフォークが置いてあるナプキンを手に取った。お父様と食事の最中に、私が使用した物を使うわけにはいかない。綺麗な物でなければ健二郎様に失礼にあたる。
私は健二郎様の側に寄り添い、お口の側についたお肉のソースをナプキンで拭き取った。
「私とした事が、お恥ずかしい」
「そんな事はありませんわ。誰にだって起こり得る事です。特別な事ではありません」
「ありがとう」
健二郎様が私を見上げそう言った。それと同時にナプキンに包まれ手いたら硬い物の存在に
私は心の底から安堵した。
何も私の個人的な事で安堵した訳ではなかった。私は世の中の女性の為に安堵したのだ。
必要な事と向き合えたのはお岩のお陰だった。
私は手の中でナプキンを揺らした。硬い物がスルスルとナプキンの中から姿を現した。
鋭利な銀製のフォークがシャンデリアの淡い明かりに跳ねて黄金製へと変わった。
キラリと光ると同時に、健二郎様が微笑みを私に向けた。
私はその笑みに応えるよう健二郎様の頭部に片腕を回した。胸へと引き寄せ髪の毛に指を這わせた。そしてナプキンを持った手に力を込めて、上へと振り上げた。
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