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朝食を終えると、有希子と一緒にアレンの散歩に出かけた。大型犬のジャーマンシェパードは朝晩それぞれ四十分から五十分、最低でも一日九十分は散歩が必要だった。排泄物用のスコップやポリ袋、マーキングを流す水などを納めたバッグを一斗が持ち、有希子がリードを握る。
散歩のコースには民家も並んでいるが、田畑が続くエリアには人気が無い。朝はともかく夕方や夜は有希子一人では危ないかも知れない。出来れば事件解決までは有希子に着いて行くか、一斗が散歩に連れて行った方が良いだろう。
途中で住民と会っても有希子は、おざなりな態度で軽く会釈をする程度だった。二年前の事件以降、近隣住民との付き合いも変わったのかもしれない。田舎はどこも大差ないが、人間関係は濃密で異物を排除したり、地域の有力者に忖度する傾向がある。
「兄貴が非番や公休の時は、よく一緒に散歩したんだよ。なんだか懐かしい気分だな」
有希子が空を見上げながら気持ち良さそうに言った。
「相談なんですけど、早朝や夕方、夜に有希子さん一人で散歩するのは、いくらアレンがいても危険です。事件解決まで自分が通いますから、必ず一緒に散歩しませんか」
「通うの?そんな面倒なことは止めて、うちにいればいいよ」
当たり前のように言われる。
「一緒に住むってことですか?」
「嫌なら無理にとは言わないけど」
「嫌なわけないじゃないですか」
確かに一緒にいれば安否を心配することもないし、有希子が仕事に行っている間に家事を済ませれば負担も減るだろう。
「今、体の関係が目的じゃないんだって、自分に言い聞かせていたでしょ?お姉さんはお見通しだぞ」
「うっ……」
図星だ。
「私は一斗が好き。毎晩抱かれたい。それは悪いこと? 違うよね。解決までは一緒にいた方が何かと都合も良いし、離れていると心配しちゃうってのが一番の理由だと思うけれど、それはそれ。そんな堅苦しく考える必要はないよ。何か不都合が出てきたらその時に考えればいいだけだし、今から心配しても仕方ないかな」
「分かりました。ただ、嫌だなと思ったことや、踏み込まれたくなエリアに入ったときはその場で言って下さい。それと、光熱費や食費の負担は決めないと」
「まだ学生で親掛りなんだから、そんな心配しないの。どうしても気になるなら家事とアレンの世話、あと時々で良いから送り迎えしてもらえると助かるかな。そうと決まったら、仁木さんと会った帰りにアパートに寄って、当面必要な荷物を持って帰らなきゃね」
アレンの散歩を終えると有希子が淹れてくれたコーヒーを一杯だけ飲み、甲斐の部屋を見せてもらうことにした。何か動きがあったときに分かるよう、テレビのニュース番組をつけっぱなしにしておく。
土地に余裕がある田舎では珍しくない平屋の3LDKの間取りで、有希子の部屋は廊下を挟んだ南東にあり、甲斐の部屋はその北、北東側に位置していた。
甲斐は仕事の性質上勤務が不規則なため、日当たりの良い南東の部屋を有希子に譲ったらしい。
ドアの前に立つと何とも言えない重苦しい空気を感じた。うっすらとした頭痛が始まり、記憶を求める瞳がチカチカする。
「どうしたの?」
有希子に声をかけられ、一斗ははっとして我に返った。
「大丈夫、なんでもありません」
意を決してドアノブを回して部屋に足を踏み入れる。カランと乾いた金属音が出迎えてくれた。
デジャブ。ドアの上を見ると、犬を模したアンティーク調のドアベルが取り付けてある。ドッグランのカフェに付いていた物とよく似ているが、僅かにデザインが違うせいか、より高音だった。
「ああ、それドッグランのカフェのと対になってるんだって。うちのが男の子でカフェにあったのが女の子、ちょっと音も違うよね。兄貴の帰りが遅い時心配だって言ったら、帰ってきたのが音で分かるようにって付けたんだ」
二人きりの兄妹、しかも兄は危険性のある職業に就いていたのだ。お互い心配は尽きなかったのだろう。取り付けられたドアベルに、妹を思う気持ちを感じた。
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