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思考の転換
翌朝、全裸で毛布にくるまった二人を、散歩をせがむアレンが起こしに来た。
一斗は起き上がって目覚まし時計を手に取ると、午前六時前。いつもの散歩の時間だが、有希子は起きる気配がない。
昨夜は脱衣所で一回、ベッドで一回、生きていることを確かめ合うに互いを求め貪りあった。その後シャワーを浴び直して、結局寝たのは午前零時過ぎだ。
気持ち良さそうに寝ている有希子を起こすのは可哀想だが、一人残して散歩に行くのは心配だし、どちらにせよ起きなければ仕事に遅刻してしまう。
そろそろ起こそうと肩に手を掛けた直後、目を開けた有希子に抱き締められた。
「なんだ、起きていたんですか……」
「なんだじゃない、おはようでしょ。それと……」
有希子は唇を合わせてきた。
手早く顔を洗い着替えると、アレンにリードを付けて散歩に連れ出した。早朝の空気は冷たく乾き、眠気が一気に覚める。
「ずっとこんな日が続くと良いのにな」
ポツンと呟く有希子の腕を取り、指を絡めた。
そのためにも甲斐の残したIDとパスワードを解かなければならない。
「もし仕事中に有希子さんと連絡が取りたくなったら可能ですか?」
「スマホは出られないけど、メールを送ってくれれば休憩時間に見て返事をするよ。もし緊急なら、リハビリ科に直接電話してくれても良いし」
余程のことがない限り、病院に電話をするのは迷惑になるだろう。急ぎの確認事項があっても、出来るだけ帰りまで待つかメールで済ませることにする。
「もう一つお願いなんですが、甲斐さんが撮った写真やアルバムを見せてもらっても構いませんか?」
記憶の中で甲斐は写真を整理していた。もしかしたら何か手掛かり残されているかもしれない。
「大丈夫だよ。警察に持っていかれたままのも多いけれど、帰ってきた写真は仕事に行く前に出しておくから」
アレンの散歩から戻ると、手早く朝食を摂った。
二人で歯磨きを終えると有希子がメイクをしている間に、一斗は洗い物を済ませた。洗濯物を洗濯機に放り込み、液体洗剤と香りを抑えた柔軟剤を投入するとタイマーをセットする。
シェーバーで薄い髭を剃り、眉を整える頃には有希子もメイクを終えていた。病院勤務のため派手なメイクは出来ないが、ナチュラルメイクの透明感や健康的な清潔感が有希子を引き立たせている。
着替えを終えると、アレンの届く範囲に危険なものが落ちていないか確認をしてから家を出た。
「一斗がいて助かるよ。一人だと全部しなきゃだから、朝は特に忙しくて。それに運転してもらえるから楽ちんだしね」
「いえ、こちらこそ只で住まわせてもらっているから、出来ることはしないと落ち着かないです。運転も好きだから楽しいくらいですよ。男は単純な生き物で、きれいな人を乗せている優越感もあるし」
「一斗さあ、最近口が上手くなったよね。記憶が失くなるまでは、案外たらしだったりして」
病院までは通勤時間帯でも四十分くらいだ。下らないお喋りをしているとあっという間に着いて、職員駐車場に車を止めた。
「気分が悪くならないおまじない」
有希子が言ってキスをする。
「じゃあ、また六時頃迎えに来ます」
車を降りて手を降る有希子に笑顔で返し、一斗は駐車場から車を出した。
家に戻ると洗濯物を干し、室内の掃除を済ませる。アレンがいるので毎日どうしても抜け毛があるし、人にも犬にも清潔な方が良い。また、気をつけていてもアレンが口にしたら良くないものが落ちている可能性もあるので、掃除機を掛けたあと、フローリング部分はワイパーシートで拭いた。ついでに風呂や洗面所、トイレの掃除も済ませる。
コーヒーを一杯飲んで一休みしたあと、自分のノートパソコンとスマホ、有希子が出しておいてくれた写真を持って甲斐の部屋に向かう。IDとパスワードの手掛かりは一斗が見過ごしているだけで、絶対に身近なところに残されている確信があった。
甲斐の机を借りノートパソコンと写真を置くと、電源アダプターを繋ぎ立ち上げた。調べものをするならパソコンのほうが使いやすいし、スマホには仁木から連絡が入る可能性もある。
有希子から借りた写真の殆んどはアルバムに収まっていた。順番が分からなくならないよう、一ページごとにスマホで写真を撮ってから一枚一枚外してフレームだけのベッドに並べていく。
甲斐の記憶の中では、写真にメモやタグを付けて整理し、カレンダーに印を付けていた。実際に写真を裏返すと、几帳面な性格だったのか右下の隅の同じ位置に、日付やコメントが書かれている。
手掛かりはこの中にあり、有希子かアレンに関係しているはずだ。とはいえ、誕生日など誰にでもわかるものを使っているとは思えないし、間違った入力を続けてIDがロックされれば、甲斐の残した証拠は永遠にデジタル空間を彷徨うことになる。なにしろ十桁の英数混じりのIDと数字十五桁のパスワードの組み合わせは、最新の総当たり解析ソフトとコンピューターを二十四時間使っても、一ヶ月では突破できないほどなのだ。
確かに保険を掛けるという意味では、セキュリティを重要視するのはわかる。だが、ここまで頑強だと、自身がいなくなったあと誰にも発見してもらえない可能性も高く、それは甲斐も避けたかっただろう。
逆か……?一斗はふと思いついて発想を変えてみた。
もしかしたら強固なセキュリティや使い勝手で選んだのではなく、このIDかパスワードの桁数が必要だったから選んだのではないか。
一斗はすぐに検索をかけ始めた。料金や使い勝手、運営企業の評価など、同じレベルのオンラインストレージサービスが要求しているIDとパスワードを
次々に確認していく。
一時間後、一斗は自分の仮説が間違っていないことを確信した。全ての業者を調べたわけではないが、IDは概ね八桁から十桁の英数混じり。だが数字十五桁のパスワードを要求していたのは、甲斐が契約していた『OnlineStorageService StorageGear』だけだった。
有希子かアレンに関係があり、第三者にはわからない十五桁の数字。甲斐がこれを求めていたのなら、有希子かアレンに関係する数字で一致するものが見つかるはずだ。それに関連してIDも判明するかもしれない。
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