No Way Out

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No Way Out

「下着が見つかんない……」  一斗が目覚めると、寝ぼけ眼の有希子が毛布から這い出し、脱ぎっぱなしの下着を探そうと起き上がっていた。  ベッドの横では、散歩をせがんで起こしに来たのか、アレンがお座りで待っている。  昨日は朝から夕方まで、運動不足ぎみだったアレンをドッグランランで思う存分遊.ばせていた。昼食と三時の休憩は前回同様ドッグラン内で済ませたが、今回は疲れの見える有希子を休ませている間に、一斗が鈍い音のドアベルが鳴るカフェに足を運んでいる。  帰宅後は簡単に夕食を済ませて一緒に風呂に入ると、髪も乾かさず貪るようにお互いを求めあった。今夜が最後かもしれない。そんな思いが心中前のような激しさとなり、何度も果てるまで生を確かめあっていた。  互いの首筋や胸元には熱情の赤い痣が浮き、一斗の背中には幾本もの爪痕が走っている。  下着を探し出した有希子と交代で洗面所を使ったが、ヘアケアもスキンケアもせずベッドに直行したため、二人とも寝癖で髪が跳ねまくっている。仕方なく帽子でごまかし、アレンを散歩に連れ出した。 「気持ちいいね」  わずかに霞がかった青空の下、伸びをした有希子の手を取り指を絡めた。  桜は散ってしまったが、道端や畔にはカラスノエンドウや西洋タンポポ、ハルジオンなどが咲いている。もうすぐ田んぼには水が張られ、蛙が目覚める頃には燕がやって来るだろう。長閑に流れる時間に、二人を待ち受ける仁木や警察との命懸けの駆け引きが、どこか他人事のように思える。  全てのデータを仁木に引き渡し、アレンを連れ有希子とどこかに行ってしまいたい欲求に駆られたが、真実を知ってしまった自分たちに逃げ道など無く、何より甲斐の無念を晴らすことができない。最早けりをつける以外の選択肢は一斗たちに残されていなかった。 「来年の桜は一緒に見たいですね」  散歩の時くらい生臭い話は忘れ、今この時間を楽しみたい。有希子の手をしっかりと握り、その温もりを心に刻み付けた。    散歩から戻ると手早く朝食を済ませ、二人でシャワーを浴びた。背中の爪痕が滲みてヒリヒリする。  有希子がヘアケアとスキンケアをしている間に、一斗はアレンのトイレ二ヶ所を掃除し、それとは別にペットシートを二ヶ所に敷いた。水も三ヶ所に分けてたっぷりと用意する。自動給餌器にはドライフードを詰め、時間設定をしておく。 「大丈夫だよ。必ず戻るから、ちょっと留守番をしててくれ」  甘えた声のアレンに声を掛け、肩から首筋を撫でてやる。一斗の顔を舐めたがるので好きなようにさせ、優しく抱き締めた。    自分のノートパソコンとポケットWi-Fi、モバイルバッテリーが充電されているのを確かめ、甲斐のIDでオンラインストレージにログイン後、スリープモードにしておいた。もし仁木が裏切った場合、甲斐のIDとパスワードは絶対に知られてはならない。目の前でログインをするつもりはなかった。  準備をしていると、昼食の準備ができたと有希子から声が掛かる。  タネを冷凍保存しておいたハンバーグを焼き、ポテトフライにコーンとブロッコリーを付け合わせたシンプルな昼食だったが、有希子の手料理は何でも美味い。 「本当は焼いてから冷凍した方が肉汁や旨味が逃げなくて美味しいんだけど、冷ましてから冷凍するのが意外と手間なのよね」  それでもナイフを入れると、ジューシーな肉汁が溢れてきた。挽肉の脂身やつなぎのバランスが良いのかもしれない。 「これ以上美味かったら、他のハンバーグは食べられなくなっちゃいますよ」  一斗だけでなく、有希子もこれが最後の昼食になるかもしれないのを意識しているのか、それ以上会話は進まない。 「一つお願いがあるのですが」 「自分一人で行くとかは無しだからね」  居心地の悪い沈黙の中、一斗が切り出すとすぐに返された。 「いえ、有希子さんを一人にするのも不安ですから。ただ、自分も不安なのは変わらないので甲斐さんと行きたいんです。お気に入りだったスーツ、借りても良いですか」  前回体に合わせたときはフラッシュバックが起きたが、今は違う。きっと甲斐が見守ってくれるという確信があった。 「もちろん構わないよ。兄貴と一斗、二人に守られているようで安心できるしね。ワイシャツとネクタイは私が選んであげる」  食後のコーヒーを飲み終えると、二人で食器やフライパンを洗い、カゴに並べていく。最後に生ゴミを取って、二重のポリ袋に入れてからゴミ箱に捨てた。  いつでも出掛けられるよう、歯を磨いて髪を整えると、一斗は深呼吸をして仁木の持つ飛ばしのスマホに電話を掛けた。  コール二回。待っていたかのようなタイミングで電話が繋がった。 「見つけたのか?」  仁木の口調からは何の感情も読み取れない。 「はい。ただ、あまりにも闇が深すぎて、自分でどうにかできるような問題じゃなさそうです。仁木さんの伝手を使えば何とかできるんじゃないかと……」 「見てみないことには何とも言えないな。この間のホテルに、すぐ来られるか?」 「大丈夫です。一時間ちょっとで行けると思いますが、何か必要な物があれば買っていきますよ?」 「いや、気にしなくていい。じゃあ待ってるぞ」  電話を切った一斗の中に暗雲が立ちこめた。普通に考えれば、難攻不落と思われたIDとパスワードを解いたのだから、もっと興奮するなり中身について聞いてくるなりするはずだ。しかも以前は口煩く尾行されないよう注意していたが、今回は何も言われなかった。むしろ証拠を手にした今こそ、最大限の注意を払うよう注意するのが普通ではないか。  自分の考えすぎであることを祈りながら、有希子に出発の時が近づいたことを告げた。
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