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ぽろぉんくせぇまに対してあれこれ思い巡らすうち、とうとう琴姫は眠くなってきた。
どうしたって意識が遠のき目を閉じてしまう。舟を漕ぐように頭が動く。どんぶらこっこどんぶらこっことぽろぉんくせぇまが川を流れてく。まだ熟れていない青い桃だ。桃から手が生えこちらに向かって手を振っている。なんとまぁ気さくな桃だこと。いとおかし。
その度にうぉっほんと学者坊主の威圧的な咳払いが聞こえてきた。いつしか坊主の咳払いもこほんからうぉっほんに変わっていた。
ぽろぉんくせぇまが一羽、ぽろぉんくせぇまが二羽……
琴姫の脳内で、ぽろぉんくせぇまは今度は鳥になっていた。名前の割にただ悪態をつく黒い鳥らしい。それってただの烏なのでは。
亥の刻が過ぎ去り、間もなく子の刻を迎えようとする頃、ようやく若君が寝所にふらりと現れた。
「すまなんだ。使いの者が戻り話を聞いていたらこんな時間になってしもうた」
目を開けたまま眠っていた琴姫の脳に、耳馴染みの良い若君の声は響かず、そのまま沈黙の時間が流れる。
学者坊主のぐうぉっほんの咳払いで、半分魂が抜け出ていた琴姫の意識が慌ててしゅるんと現世へ戻った。うぉっほんがとうとうぐうぉっほんまでに。
「琴姫か。わしが三日後正式にそなたの夫となる有禅じゃ。よろしゅう頼む」
そう言って目の前で座す有禅と向き合った琴姫は、そのまま再び固まった。
有禅様、これは何という美丈夫か。
艷やかな御髪。形の良い透き通った切れ長の眼。鼻梁の通った鼻。薄すぎず厚すぎず均整のとれた品の良い唇。肥えてはおらず、そうかと言って貧弱でもなく。丁度良い逞しい身体。座す瞬間に意識が戻ったから一瞬ではあったが、背丈は兄上よりも多分高い。
このように美しい殿御、琴は生まれてはじめて出会うた……
「琴姫?いかがいたした?」
有禅の声に我にかえり、琴姫はそこでようやく自分が口を開けて真正面を見据えていたことに気づき、慌てて平伏した。
「わ、若君。申し訳ござりませぬ。琴にござりまする」
「うん。面を上げよ」
有禅に促され、琴姫は恐る恐る頭を上げた。
目の前の有禅が、清らかな眼で食い入るように琴姫を見つめている。もう一個饅頭を強請る時の平六よりも曇りなき眼だ。琴姫がそう思っていると、有禅が顔を背けて口に手を当て、くつくつと忍び笑いした。
「琴姫。口から光るものが流れておる」
「ご無礼つかまつりました。お許しくだされ」
「よい。こんな時間になるまでそなたを待たせておいたわしが悪いのじゃ。わしの方こそ済まぬ」
「そんな、滅相もございません」
恥ずかしさに顔を赤らめながら琴姫が袖で涎を拭っている間に、有禅が更に琴姫に近づいた。その距離は有禅の息遣いが琴姫の耳にしっかり届くくらいの位置までとなり、琴姫は思わずひやっと声を上げてしまった。
「驚かせてしまったかの。しかし、もう夜更けも夜更けだ。そなたが完全に眠ってしまって儀式が滞ってしまっては困るが故。許せよ」
そう言って、有禅の細長く美しい指が琴姫の顔へと真っ直ぐに伸びてきた。
緊張が増した琴姫は、茅から寝所で余計なことは言わないように諭されていたものの喋った。
「も、もう始まるんでございますか?ぽろぉんくせぇまが」
琴姫の言葉に、有禅の手が止まる。
「うん?ぽろぉん、くせぇま?」
「はい。ぽろぉんくせぇまにございます」
すると有禅がいきなり腹を抱えて笑い始め、琴姫はひどく困惑した。
「若君?いかがなされたのですか?」
「いや、相すまぬ。琴姫よ、一体誰がそのようにそなたに教えたのだ?」
「はぁ、茅殿から」
「そうか、茅が……きっと母上だな。あの人もお人が悪い。琴姫、ぽろぉんくせぇまではない。ぽろんくせま、だ」
「ぽろんくせま……」
「そうじゃ。それが正しき言い方じゃ」
ぽろんのろんのところで弾みをつけ、くせまのくをやや力を抜いて言い、その代わりせまのところをはっきりと言うのか。茅の言い方よりもっと背筋が伸びる言い方だ。やっぱり謀られたか。ていうか茅やお糸ではなく、本丸はまさかの母上様であったか。
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