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ふと見上げた壁掛け時計は、間もなく日付けを跨ごうとしていた。
「先輩。もう夜も遅いし、泊まっていきます?」
「え、さすがに迷惑だろ」
「ストレッチ補助に朝食付き。悪くはないと思いますが」
「俺は嬉しいけど……美澄は嫌じゃねーの?」
「嫌だったら、そもそも家まで連れて帰ってきて夕飯食べさせてませんよ」
「そっか。じゃあ、甘えさせてもらおっかな」
ふわりと笑えば、ちらりと覗く八重歯が眩しい。男から見てもかっこいい上に背も高く野球が天才的に上手いだなんて、神様は何物を与えれば気が済むのだろう。
平日の試合は基本的に夜に行われるナイトゲームの為、午後から動き出しても十分間に合うらしい。明日は火曜日。美澄は接骨院自体が休みなので、一日休みだ。
順番に風呂に入った後、公約どおりストレッチを手伝う。座ったままでも二塁へストライク送球が出来る要の強肩は人よりも可動域が広く、一人ではなかなか満足に伸ばすのが難しそうだった。
「息は止めないでくださいね。痛かったら教えてください」
「うぃ~……」
あぐらをかいて座る要に頭の後ろで手を組んでもらい、背後に立つ美澄が両膝で要の肩甲骨を押さえ、両手で上腕を斜め後ろに持ち上げる。
心配になるくらいの可動域だが、本人は痛そうな素振りを全く見せないので大丈夫なのだろう。
「次、足伸ばします。仰向けに寝転がってください」
「んー」
フローリングに敷いたヨガマットの上に寝転がった要と視線がぶつかった。本人の嗜好と同じ甘ったるい眼差しが、美澄を捉えて離さない。
何故か先に逸らしたら負けだと思って見つめ返すと、要は心底嬉しそうに、そしてくすぐったそうにはにかんだ。
「わー、ホントに美澄だ。ほんもの」
「なんですか、藪から棒に」
「だって、もう会えないと思ってたからさぁ……」
それは美澄とて同じ思いだった。嫌われたとばかり思っていた。辛いのは自分ばかりだと思って、勝手に嘆いて、諦めて。
左のハムストリングスを伸ばしていた手を止める。美澄が次の言葉を探しているのを察してか、要はゆっくりと半身を起こした。
「……俺、実は」
「うん」
「怪我をした時に要先輩から連絡がこなかったのは、先輩が俺のことを嫌いになったからだと思ってました。怪我をして、思うように投げられなくなって、俺は野球から逃げた。こんな弱くて卑怯な俺のことなんて、嫌いになって当たり前だって」
弱虫な自分自身が大嫌いだった。膝の上で握ったこぶしが震える。
「本当は、俺もプロになりたかった。また要先輩とバッテリーを組みたかった。スカウトもきてたし、球団の人と話をする機会もあった。それなのに、俺はみんなを裏切って逃げたんです」
「逃げじゃないだろ」
要の右手が、美澄の左手首をそっと掴んだ。年中着ている長袖シャツの袖を上腕まで捲られる。
さらけ出された、消えない手術痕。白い肘の内側に走る一本線は赤みを帯び、苦しい記憶を思い起こさせる。それらを全部上書きするみたいに、要の少しカサついた指先がなぞった。
「これだって、美澄が頑張った証だと俺は思うけど」
「……っ」
「それに、プロになることが全てじゃないしな。柔整師と指圧師だっけ? スポーツやってる人をサポートする仕事してるじゃん。それは逃げなんかじゃなくて、真摯に向き合ってる証拠だと俺は思うよ」
ツンと鼻の奥が痛くなって、慌てて上を向いた。
「……あまり、やさしい言葉をかけないでください」
「え、どうして。俺今すげー先輩っぽいこと言ったじゃん」
「でも、要先輩が俺の先輩でよかったなって、改めて思いました。ありがとうございます」
誰がなんと言おうと、要は世界で一番のキャプテンだ。
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