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多々良接骨院は、おじいちゃん先生で院長の多々良、多々良院長の一番弟子である四十代の吉村、そして昨年入社した美澄の三人で治療を行っている。
主に学生、それから高齢者を中心に、地元に根付いた接骨院として日々たくさんの人が訪れていた。
「なぁ、昨日のプロ野球すごかったよな。観た?」
この地区の小学校や中学校の野球部は強豪が多く、訪れる学生も野球部率が高い。聞こえてくる内容も、おのずと野球に関することが多くなる。部活について。もしくは、テレビで毎日のように放送されているプロ野球について。今日は後者のようだ。
「もちろん観た。すごかったよな、スワンズの三者連続ホームラン!」
「美澄先生は観た?」
「あー……ううん、観てないや」
まだまだ小さな足へ流れる電気が強すぎないのを確認してから振り返る。夏の太陽でこんがりと日焼けした中学生たちは、一様に信じられないとでも言うような目を美澄へ向けた。
「えー、観てないの? 美澄先生、野球やってたんだろ」
「少しだけだよ。ほら、電気やる人はちゃんと椅子に座って」
ぱん、と手を打つ。はーい、と野球部らしからぬ、のんびりとした返事が重なった。
電気治療組は事務所から出てきた吉村に任せ、美澄は入口付近に立っていたひょろりと背が高い少年を手招く。
「井上くんは、左足マッサージしよっか」
「っす」
奥のパーテーションで区切られたスペースへ移動し、井上をマッサージベッドに座らせ、先日から違和感があるという左足のスネの外側に触れた。たしかに、左手の指先に張りが伝わってくる。
「ここ、痛くない?」
「少し……痛いです」
「ちょっと張ってるから、よく解しておこう。家に帰ったら、よくアイシングしてね」
「分かりました」
前脛骨筋の張りは、疲労が主な原因だろう。痛くない程度の力で筋肉に沿ってさすっていると、頭上から声が降ってきた。
「あの、美澄先生」
「なぁに?」
手は止めずに顔を上げる。年下に舐められやすい美澄にも敬語を欠かさない中学生の真面目そうな眼差しが、美澄を見つめていた。
「俺、甲子園で美澄先生のこと、見たことある気がします」
「人違いじゃない?」
「スワンズで昨日ホームラン打った間宮選手と、バッテリー組んでましたよね?」
「……」
スワンズとは、東京に本拠地を置くプロ野球チームの「東京スワンズ」のことだ。テレビで野球を観戦しなくともその程度の知識はあるが、美澄は何も答えなかった。
「先生って、すごくイケメンじゃないですか」
「そう?」
「そうっすよ。前から思ってたけど。ハーフですか?」
「いや、クオーター。祖父がヨーロッパの人なんだ」
スラブ系の祖父の血が濃く出ているのか、その手の質問には慣れていた。
色素の薄い髪や虹彩。抜けるように白い肌。高い鼻に薄い唇。幼少期とは違い、周囲の人々とは少し違った特徴を持つ容姿を揶揄されているわけではないと分かっているので、褒め言葉として受け取っている。
「すげー球投げる左ピッチャーで、顔もカッコよくて、よく覚えてます。美澄先生も左利きだし、そのピッチャーの苗字も、たしか雪平だった」
その目は確信めいていた。美澄は苦笑する。
「イケメンだって言ってくれるのは嬉しいけど……あれはもう、過去の話だよ。もう六年も前だ。井上くんだって、小学生の頃でしょ?」
大人の六年前と中学生の六年前では、あまりにも大きな差がある。十四歳の彼ならば、当時八歳。小学二年生か三年生だ。
「そうっす。でも、家族みんな野球好きで、テレビで観てました。先生は、プロにならなかったんですか」
「うん、色々あってね……よし、マッサージ完了。あまりやりすぎるとかえって痛める原因になることもあるから、家に帰ったらアイシングメインでマッサージはしないように。明日も様子見ながら、電気治療かマッサージか判断するね」
「はい。ありがとうございます」
「この後は肩の電気治療だね。移動しようか」
「あ、美澄」
「はい?」
よっこいせ、と立ち上がるのと同時に、電気治療組の相手をしていた院長の一番弟子、吉村に名前を呼ばれた。
「多々良先生が呼んでたぞ」
「分かりました。すみません、井上くんの肩も電気治療でお願いします」
「了解」
井上の治療を吉村に託し、呼び出しの心当たりが全く無いまま事務所へ戻る。なんだろう。自分が担当した事務処理で、何か不手際でもあっただろうか。
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